どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

谷口ジロー

 冬になると除雪もあるし、窓が凍っている可能性もあるので、早めの出勤は必須。その日も、早めに出勤し、その日、使用すると思われる車両の全ての雪をはらい、車のエンジンをかけた。立場が違うだけで心持ちが変わるもんだな、と思った。私が20代だった頃は、なぜ、いつも私が除雪をしなければならないとか、私がこうして除雪しているのを見て欲しいと思ってやっている可能性があるな、と思った。今は、当然のように除雪をする。その行為を誰かに見て欲しいともストレスとも思わない。部下からSlackで、お礼が入ってくる。私は、紳士として(当然)と、返した。

 

 仕事から帰ってきて、夕飯のときに、観たいテレビないね、と妻と話し、妻が録画していた『新美の巨人たち』を観た。漫画家、谷口ジローのことをやっていて、谷口ジローの名前は知っていたが、漫画は読んだことがなく、テレビを観ながら、孤独のグルメの原作者って、谷口ジローだったんだ、と思った。谷口ジローの作品のなかの『歩くひと』が取り上げられており、外国人が、谷口ジローとは、生きた時代も住んでいた場所も違うが、谷口ジローの漫画を読んでいると、自分の子どもの頃を思い出すと言っていた。『歩くひと』には、ほぼ言葉がないらしい。谷口ジローは、言葉を使わず、絵だけで表現しようと試みたとのことだった。だからなのかはわからないが、海外にも広がっていったのか。メッセージ性がないというか、余白をつくるというか、読者に委ねるというか、そんな作品に私は惹かれる。一度、谷口ジローの漫画を読んでみようと思った。そういえば、以前も、テレビで谷口ジローの漫画が紹介されていて、読みたくなって、読書メーターに記録していたんだっけと、調べたら、『犬を飼う そして、猫を飼う』だった。

 

 

 

花束

 柿内正午さんの新作出てないかなあと、ふと頭に過ったのが数日前で、パソコンで検索したら、『会社員の哲学』と『町でいちばんの素人』が作られていて2冊、買った。

不在連絡票を手にして郵便局に取りに行き、いつも行くラーメン屋に、『会社員の哲学』を持参してカウンターに座り、しょうゆラーメン大盛を注文した。

 無名で、目立たない凡庸な賃労働者の思想。そういう本がなぜ少ないかって、無名であるからだし、凡庸であるからだ。そもそも著者が見出されないし、見出せたとしても売れはしないだろう。つまり、個人が勝手に作って、勝手に売るしかないのだ。僕が読みたいから、僕が作る。無名で、凡庸な会社員の思想書を。柿内正午『会社員の哲学』p1

 はじめにの出だしから惹かれる。この本、好きかもしれないという本は、たいてい出だしから心を掴まれるなあ、と13ページほど読んで、『町でいちばんの素人』は、どんな感じだろう、と開く。日記の形式で、『プルーストを読む生活』も日記でおもしろかったから、これこれと、今は、『町でいちばんの素人』を読んでいる。『プルーストを読む生活』を読んだ時も思ったが、改めて、柿内正午さんの行動力がすごい。『会社員の哲学』、『町でいちばんの素人』は、自費出版という形で出版しているようだし、本屋さんには自分で営業をしているようだった。

 

 その日の夜は、実践報告会があり、吹雪いていることもあって、早めに自宅を出ることにし、クロネコにネットで購入したコートを取りに行った。早く着たくて、車でダンバールを開封した。サイズがぴったりだった。着ている感じを確かめたくて、コンビニに入って、トイレの鏡で確かめる。

 実践報告会場に着くと、部下のひとりが、体温良いですか?と私のおでこに非接触型体温計をあてた。会場準備係は、立候補で、私が指示したわけでもなく、部下2人が率先して手をあげた。それが私にとっては嬉しいことで、というのは、日頃から、目立つ成果をあげる人よりも、陰ながら、誰かのために動ける人の方を私は評価したいと思っているからで、その2人は、評価してもらいたいという素振りもなく、自然とそこにいたからだった。野球で言うところの個人の成績よりも、ベンチで、エラーをした選手に声をかける選手や、試合に出場していないのに、誰よりも声を出している人を私は評価すると言うことと同義で、プロ野球は、ファンから見えないけれど、現場サイドでは、そこも評価しているのだろう。実践報告会の動画は、今日、初めて私は観ることになったのだが、私たちが大切にしていることが詰まっていて、発表者の想いが詰まっていて、結果云々にかかわらず、満足だった。このようなものは、順位をつけるのは望ましくないのかもしれないと薄ら感じていて、結果発表は、結局、そのような形となった。表彰式で部下は、感想を話しながら、感情が込み上げてきていて、私も薄らと涙が込み上げてきて、マイクを向けられることがなくて良かったと胸を撫で下ろした。業務を終えて遅れてきた部下が一人、また一人と会場に到着した。実践報告会が終了したら、誰からともなく集まってきた。じゃあ、俺は帰るわ、会場を後にした。

 自宅に着いてすぐに、ねぎらいの言葉を残したほうが良い気がして、Slackに送った。送った後に、何度か直した。このメッセージは、次の朝に見るのかなあと思った。朝は、花束のような言葉を読むことから始めたほうが良いスタートを切れるよな、と思った。どちらかというと、注意のメッセージをしてばかりだ。

徹夜

 スーパーで、ペットボトルのお茶を買い物カゴに入れ、おにぎりを探したが、時間も時間で見あたらず、スーパーに近いローソンに行き、おにぎりを6個(シャケ3個と昆布3個)、からあげクンが4個しかなく、4個買い、職場に戻る途中で、感染予防の観点から一緒に食べるのはなあと頭を過って、町にある、もう一軒のローソンに向かった。そのローソンには、からあげクンが2個残っていた。今、この時点で、この町にあるからあげクンは、俺が買い占めたことになるという言葉が頭の中にうかんだ。車内の時計を見ると、20時半だった。ダンボールを両手で持ち、職場に戻り、集合、とそれぞれが散り散りに仕事をしていた部下を集め、今日は、徹夜になるんだろうから、とダンボールを見せた。徹夜はしません、と部下は笑った。

 社内の実践報告会があり、私の部署から1チームが予選を通過した。決勝のプレゼン動画の締め切りが、23時59分で、部下は根詰めて、その制作にあたっていた。ちなみに、予選の提出期限もギリギリだったとのことだった。前回の話になり、2ヶ月前に就職したばかりの職員が、大丈夫です、23時59分まで、あと3時間もあります、あと2時間あるので大丈夫です、とポジティブな言葉をかけていたらしい。私は、その話を訊いて、私たちのチームはネガティブな者が多いから、ポジティブな人は貴重だわ、と笑った。

 私は、一切の口を出しをしないと決め、部下にまかせることにした。部下の頑張りを労うのが、ここでの私の役目であるのは、私も承知している。私の部署からは2チームがプレゼンに応募し、予選を通過しなかったもう1チームの者たちも、決勝に向け、バックアップに回る。私は、おにぎりを食べ、からあげクンを食べて、お茶を飲み、作業の様子を眺める。本来のやるべきことで、一生懸命になり、一緒に喜ぶという当たり前のことが嬉しい。決勝は3チームが争う。代表者を選んで欲しいということだったので、部下の一人を指名し、連絡した。表彰式を想像し、それでは、と部下の挨拶の後に、私の挨拶なんてないのに、想像してみる。胸が熱くなった。

いる

 体は大きいですが、心はノミみたいに小さいです、と自己紹介するほど、人一倍、ネガティブというか、臆病というか、よく言えば慎重な部下がいる。人に褒められても、びっくりするほど、奢らないし、油断しない。仕事の安定感は、チームのなかでも随一。ただ、自分では気づいていない。臆病さは、慎重さになるので、私は、安心して仕事をまかせることができる。

 その部下が珍しく、仕事でむしゃくしゃすることがあったようで、私と車に乗っているときに取り乱していた。珍しいなあ、と思いながら、私の必要なところって、こういうところなんだよな、と思った。たまたまスケジュールが、一緒だったから良かったけれど、普段は、それぞれが顔を合わせる機会が少ないので、誰かに聞いて欲しくても、聞いてもらえる人がいない状況もあっただろう。だからこそというか、何もなくても、私がいるという状況をつくることが重要なのだろう。

 ここのところ、よく自分を省みる。私がよく犯す過ちの一つに、目的地に一直線に向かって、部下がなおざりになってしまうというのがある。過ちというだけあって、失敗したあとに気づく。業務日誌をつけてもらって、その日、その日の気持ちだったり、考えたことを書いてもらっているけれど、リアルタイムに提出されない課題もあり、やり方を変える必要がある。ペーパーレスのほうがやりやすいのか、一度、意見を訊く必要あり。こう書いていると、重要なシステムの一つということはわかっていたのに、改善をしてこなかったことが間違いだった。

 

関係性

 他者のことって、わからないもんだなあ、と思いながら、車を右折し、会社の駐車場に入った。今年、そう思うことが今回で2度目だ。駐車場に車を停め、会社の玄関に入って、アルコールで手指消毒をし、2階に上がる。すでに部下が何人か出勤していて、挨拶を交わし、パソコンを開いた。本日のスケジュールは、会議から始まる。イヤホンを出し、zoomのURLを押して待機した。会議が始まるまでの間、次年度の予算資料を作成する。事務作業の合間で、意識的に職場の同僚と会話をする。今年、最も不足していたこと。昨年までは、最も意識していたこと。休憩時間に、燃え尽き症候群について調べる。ささっと読んだだけなので、よくわからない。かなり前から聞いた言葉だし、なんとなくイメージはわくけれど、では、どのような対策をしたら良いのかが、わからない。コロナも、落ち着いてきて、張り詰めた糸が緩む頃。緩むと疲れがどっと出る気がするけれど、ずっと張り詰めているのも疲れる。では、どう緊張と弛緩を繰り返すのが良いのか。というか、私は、ほぼ緊張していない。弛緩しているわけでもない。程よい。緊張と弛緩をさほど感じない状態がベストなのか。といっても、意識的に、そういう状態にコントロールしているわけでもない。20代の頃は余裕がなかったのを思い出す。緊張多め。そうならなくなったのは年の功なのか。年の功以外に方法はないのか。今日は、割と事務作業にさける時間もあって、順調に仕事が進んだ。

 佐渡島康平『観察力の鍛え方』を読んでいる。全表現者必読と帯に書かれている。 

 人の能力は関係の中で発揮され、人は関係に悩む。佐渡島康平『観察力の鍛え方』p183

 自分の能力が発揮できていると感じるのは、この環境にいるからだと思っている。担当している部署の業務内容もそうだし、一緒に働いている同僚にしても言える。だから、他で同じような働きを期待されても、期待に応えることはおそらくできない。私と同じように、部下同士もそんな関係の中で能力を発揮できたら良いなと思うけど、どうしたら良いのだろうか。

僕が本当にいいと感じる物語は、人と人の関係を描いている。関係から、その人らしさを浮かび上がらせている。佐渡島康平『観察力の鍛え方』p184

 関係から、その人らしさが浮かびあがるとは、どのようなものなのだろうか。

 

 

 

流れ

 朝、起きて、なんとはなしに、ネットで冬用コートを見ていたら、欲しくなって、衝動的に購入した。この前、ネットで購入したジャケットは、サイズが合わなかったので、試着しないで購入することに不安はあるのだが、この安さで買うことって、そうそうできないのでは、と駆り立てられるものがあり購入した。サイズが合いますように。ただただ祈るばかり。そのブランドの広告をネットで目にしたのは、数ヶ月前のことで、私好みのデザインで、そのブランドの店舗に行ってみたけれど、高くて、買うのを諦めた。新品では。

 新型コロナウィルスにより、在宅ワークが導入され、働きやすくなった。反面、部下と顔を合わせる機会が失われていたことに、今更ながらに気づいた。上司たるもの、問題がなくても、そこにいるということに価値があるのではないか。相談したいときに、相談できるということが重要なのではないか。もちろん、電話でも相談できるのだが、直接会っているからこその利点が必ずある。失敗して、気づく。

 人は問題が起こったときに、相手の性格や能力のせいだと考えてしまいがちだ。だが実際は、仕組みや運用に課題があることも多いし、たった一つのルールを変えるだけで人の行動がガラッと変わってしまうことだってある。佐渡島康平『観察力の鍛え方』p131

 ここのところ、チーム内で決めたルールを、部下に守ってもらうためには、どうしたら良いかを考えいていた。逆に、私がルールを破る場面って、どんな時なのだろう?と考えた。めんどくさい時だった。ルールが守れない時って、結局、その仕組みや運用に課題があるのだろう。

 決めたルールを守れ、と、Slackに入力して、休み明けに部下が読んだら、ずず〜ん、と1日が始まるな、それは良くないと、冷静になって、部下がみていないところで、メッセージを削除した。

 ネガティブな言葉は、よくない。ここのところネガティブな言葉を、ひさびさに浴びて、調子が悪くなった。ひさびさすぎて、逆に気づいた。ネガティブな言葉の効能。

 野球でいうところの流れって、我々の仕事にも当てはまる、と最近、思っていて、流れが悪い時は、流れが良くなるアクションを起こすべき。野球では、まずは、声を出すことが基本で、高校球児のときは、その理由すらわかっていなかったし、考えようともしていないかった。とにかく、先輩から声を出せと言われて、その命令に従っていたにすぎなかった。あの声を出すということが、流れを良くする一つの方法だったとは。先日、会社で元気よく挨拶をしている人を見て、気づいたよ。

 私は、何か調子悪いな、流れが悪いなというときは、基本に戻ろうと言い聞かせる。そう言い聞かせるようになったからかは定かではないが、泣き面に蜂のような出来事は起きなくなったような気がする。

 流れが悪いときに、ネガティブな言葉を発すること自体が間違いなのに、そのことに気づかず、ネガティブな言葉を発してしまう。気づいたら、ネガティブなループにはまる。それは個人だけではなくチームでも言えることで、チーム内の流れを良くするには、前向きな言葉だったり、ユーモアだったり、言葉をかけることだったりするのだろう。野球でいうところの流れという言葉を最初に使った人は、誰なのだろう。すごいな。

 

  

新潟

 うっすらと、雪が積もった。例年になく、雪が積もるのが遅い。にもかかわらず、気づけば、今年も、もう終わろうとしている。びっくりする。ここ数年、年賀状を出すのが、めんどくさく、送ってくれた人たちにも返さず、にもかかわらず、何年も出してくれている人もいて、なんか、こんな時だけ出すのも気がひけるな、と思ったけれど、今年も、その人たちから年賀状が来るような気がしたので、喪中のハガキを出すことにした。

 初めてだったのだが、喪中のハガキを出した後に、連絡をくれた人がいて、わざわざ連絡をくれるなんて嬉しいな、と思った。連絡のハガキをくれた一人が、かれこれ100歳近いかたで、ハガキにも、100歳まで頑張りましょう。というコメントが書かれており、会いに行きたいな、と思った。自宅で生活しているのだろうか。でも、こんな時期に会いに行ったら、嫌がるだろうか。せめて、手紙を書こう。食べ物を送ったりはしていたけれど、手紙は何年も出していないし。

 新潟県に住んでいるかたで、新潟県には直接、会いたい人たちが何人かいるので、いつか行きたいと思っているのだが、月日ばかりが過ぎていく。久しぶりに会った時の第一声が太ったね、なのが嫌で、ダイエットしてから行こうと思っているけれど、ダイエットすらしていない。

 毎年、この時期に連絡をとる人も新潟県にいる。その人は、shabby sic ポエトリーというレコードショップを営んでいる。今年一年の自分へのご褒美に、CDを買うのだが、そのCDをshabby sic ポエトリーの店主に選んでいただいている。基本、3枚なのだが、今年は4枚で、その一人にチプルソというアーティストがいて、私は、今回、初めて知ったアーティストなのだが、YouTubeで聴いて、すぐに気に入った。どのようにアーティストを知るのだろう。今更ながらに気になったので、お金を振り込んだ連絡と一緒にメールをしよう。今日も、YouTubeでチプルソを聴いている。

 

shabbysicpoetry.jp