どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

生きる意味とは?生きる価値とは?

 テレビをつけ、昨夜の地震のニュースを見るとはなしに見ながら、シャツのアイロンがけをして、アイロンがけが終わると、自室の掃き掃除をした。こんな埃の中で寝ていたのか、と思った。本棚の整理をしている時に、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』が目に止まり、開いて読んだ。

 

 アレンカ・ジュパンチッチという哲学者が、大変興味深く、そして、大変恐ろしいことを述べている。少し言葉を足しながら紹介しよう。近代はこれまで信じられてきた価値に代わって、「生命ほど尊いものはない」と言う原理しか提出できなかった。この原理は正しい。しかし、それはあまりに「正しい」が故に誰も反論できない。そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力をもつようになってしまった。

 だが、それだけではない。人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。だから、突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。例えば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂言者たち。人々は彼らを、恐ろしくも羨ましいと思うようになっている。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p28

 

 ここ最近、生きる意味は、生きる価値は、ということを考えていて、生きる意味なんて、なく、ただ、ただ、生きるだけではないか、と、以前、考えていたのが、現時点での私の考えだ。生きる前提として、存在そのものの肯定が大事だと思っているけれど、それは、『暇と退屈の倫理学』からいくと、あまりに「正しい」。正しいが、・・・、となるのかもしれない、と思いながら、アレンカ・ジュパンチッチの言葉を読みながら、だから、私は20代の頃、何かを成し遂げたい、と何かを探していたのだろう、と思い出したりした。

 『暇と退屈の倫理学』を読み進めると、17世紀のフランスの思想家、ブレーズ・パスカルのことが書かれていた。

 

 人間の不幸などと言うものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p34

 

 部屋でじっとしていられないとはつまり、部屋に一人でいるとやることがなくてそわそわするということ、それにガマンがならないということ、つまり、退屈するということだ。たったそれだけが、パスカルによれば人間のすべての不幸の源泉なのだ。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p34

 

 おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしを求めているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p35

 

 パスカルの考えるおろかな気晴らしにおいて重要なのは、熱中できることという要素だった。熱中できなければ、自分を騙すことができなから気晴らしにならない。

 では、さらにこう問うてみよう。熱中できるためには、気晴らしはどのようなものでなければならないのか?お金をかけずにルーレットをやっても、ウサギを楽々と捕えることのできる場所で狩りをしても、気晴らしの目的は達せられない。

 つまり、気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった負の要素がなければならない。

 この負の要素とは広い意味での苦しみである。苦しみという言葉が強すぎれば、負荷と言ってもいい。気晴らしには苦しみや負荷が必要である。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p42-43

 

 妻が仕事に行く時間になったので、私は、妻を送り、コメダにそのまま向かった。いつもの、アイスコーヒーたっぷりとモーニングを注文して、iPadを開こうと鞄を開いたら、iPadのキーボードしか鞄には入っておらず、鞄に入っていたMac book airで日記を書こうと思って、電源を入れるが、あまりにも久しぶりで、パソコンに入るログインパスワードが思い出せない。

 先日、読み終わった最首悟『能力で人を分けなくなる日』に書かれていた人間の意味について思い出していた。

 

 「人間」はもとは「じんかん」と読んで、「人と人のあいだ」。つまり人が互いに関係しあっている場所のことなんですね。ということは、私たちは「人間」と言う時に無意識に「場」と言うことを言っている。場に、いろいろな事物や人がいて、つながっているという感じなのね。

 そして、人間がそういう関係の場なのだとすると、人の単位はひとりではなく、最低ふたりなんじゃないか。あらゆる関係の起点としてね。まず私があるのではなく、まず「あなた」との関係があって、その中で「私」ができていく。

 そのことを私は「二者性」と呼んで、ここのところずっと考えています。

 最首悟『能力で人を分けなくなる日』p18

 

 どこかでアイデンティティについて書かれているを本で読んだ時にも同じようなことが書かれていた。どこで読んだのだろう、と日記を読み返したが、どの本かはわからなかった。部下がいるから、私は上司であり、妻がいるから私は夫である、そんな話だった、と思う。

 人には、間が必要。私は、「間」がつく漢字は、どのようなものがあったかを考えた。居間、世間、時間。「間」の語源ってなんだろうか、と携帯電話で調べた。

 旧字は、門と月から成り、夜に、門の隙間から月が見えることから、すきまの意を表す、と書かれていた。

 では、人間は?と調べると、人の住むところ。世の中。世間。人が生きている人と人の世界であり、仏教用語との書かれていて、私が、人間だと思っていたのは、人のことだったのか、と考え、人には、やはり間が欠かせないのではないか、もはやセットと言っても過言ではないということなのか。

 人は一人で生きていけないとはいうが、確かに、この乗っている車も、誰かが作ったもので、ペンも、紙も、誰かの仕事で、私の生活は成り立っている。だけど、この考えだけでいくと、生産性の話になり、では、生産性がなければ生きている意味がないということになるのだろうか。

 そんなことをずっと考えていたら、調子が悪るくるなるような気がする、と頭をよぎった。