どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

切迫感がある

 ゴールデンウィークに妻と桜を観に行く計画を立てていたのだが、仕事の都合で、予定していた日に行くことができなくなり、妻にそのことを告げると、機嫌が悪くなった。新しい車を買っても、私には、恩恵がない、と妻が言った。恩恵がないって、あまり聞く機会がない言葉のせいか、私は、その後も何度か、恩恵がないという言葉を思い出した。

 妻を職場に送った後、桜が咲いていることに気づいた。満開に近いから、私が気づいていないだけで、何日前からか、桜は咲いていたのだろう。何の予定もない3連休初日だった。

 昼食を食べに、ラーメンと書かれている赤い暖簾をくぐる。

 店内には、女性客2名が、ちょうど食べ終わったとことで、厨房の短髪のパーマをかけたおばあちゃんに会計を済ませているところだった。

 私は薄い赤のカウンターの席の端に座り、醤油ラーメンと半チャーハンを注文した。

 店内には、私と男性客2名だけだった。先に注文していた男性客は、カレーライスを注文したようで、カレーライスを食べ、おばあちゃんに、美味しいと伝えた。ここ最近で食べたカレーライスで一番美味しいと言っていた。おしゃれな店が多くて、こういうカレーライスを食べたかった、と。

 おばあちゃんは、おしゃれと言う言葉に一瞬、間があったが、喜んでいるようで、ラーメンも昔ながらの味だとそのお客さんに伝えていた。自分が提供するものに胸を張るのは、素敵だな、とその話を聞いた。

 私も醤油ラーメンを食べた。おばあちゃんが、どう?と訊いたので、懐かしい味がする、と伝えた。

 おばあちゃんは、何度も、うちはシンプルだから、と話の節々に話していた。40年、続く町中華の店だった。

 その町中華からほど近いところに喫茶小鳥があり、私は、葛西由香『小鳥の散策』を観に行くために、喫茶小鳥に向かった。喫茶小鳥は、シャッターが半開きで、見るからに閉まっていて、携帯電話でInstagramで喫茶小鳥のページを開くと、第2火曜日は閉店していた。

 中央図書館にでも、行こうと思って、久しぶりに図書館に行った。先日、蔦屋書店のみすず書房フェアで見かけた長田弘の詩集だったりを借りたかった。長田弘の詩集2冊、中原中也の詩集を1冊、山之口漠の詩集2冊、アラン・ケレハー『コンパッション都市 公衆衛生と終末期ケアの融合』を借りた。

 美容室の時間までは、まだ時間があったので、いつものコメダに寄り、秋峰善『夏葉社日記』を読んだ。

 秋峰善さんが、夏葉社の島田潤一郎さんに電話をかけ、手紙を書くところから、この本は始まる。

 この切迫感、懐かしいな、と、私は、社会人になりたての20代前半の頃を思い出した。

 私は、大学を卒業してすぐに就職ができず、ちょうど今と同じような季節に、初めて社会人となった。期待に胸を膨らませ、理想を高々と掲げて。そんな日々は長くは続かず、なんで、皆、当たり前のように社会人をやれるんだろう、と思った。皆ができるのであれば、私もできるだろう、と自分に言い聞かせていた。秋頃になり、仕事を辞めたい、辞めてもやりたいこともないし、お金もない、だけど、辞めたいと毎日のように思って仕事に行っていた。3年が過ぎ、何か表現手段があると良いのではないかと思って、こうして日記をインターネット上で、書くようになった。他の人の言葉も、インターネット上で読んでいた。その一人、木藤瑞穂さんという人の文章が、私は更新されるたびに楽しみにしていて、記憶が定かではないのだが、木藤瑞穂さんから、いつか会おうというようなことを言われ、東京に行く機会がある時に、ダメもとで、メールを送った。

 秋峰善さんは、それから毎週木曜日に夏葉社でアルバイトをすることになる。その日々が、この『夏葉社日記』に綴られる。この本を読んでいると、ここで紹介されている本や、夏葉社の本、島田潤一郎さんの本を読みなくなってくる。私は、近々、その本のいくつかを読むだろう。

 

 それから島田さんに、そして夏葉社にハマりました。ご存知かもしれませんが、これまでトークイベントにも四回参加しました。そこで話される内容は何度聴いてもいいものです。いつも誠実である(誠実であろうとする)ことの重みを感じます。

 秋峰善『夏葉社日記』p14

 

 私は、部下に真摯であれ、誠実であれ、と伝えている。私自身も、部下に対して、本気を大切にしてきた。『夏葉社日記』を読みながら、その本気は、時として、暴力のようになっていなかったか、と頭を掠めた。

 

 何者かになる(就職する、出世する、表彰される、信念を確立する、有名になる、歴史に名を残す)ためではなく、何者にもならない(権力や暗示、習慣、常識、独断、市場、評判に屈しない)ために考え、動き続けるということ。「学問」とは本来そういうことなのではないかと思う。ー森田真せい(Twitter@orionis23)2017年1月17日

 秋峰善『夏葉社日記』p23

 

 「いい仕事というのは、のちのちわかる」

 島田さんはいう。

 「需要があって、モノが生まれるんじゃないんです。モノができて、需要が生まれるんです。だから、いいモノをつくって待つ。本がすぐに売れなくても、ジタバタしない。夏葉社の本は初版は二五〇〇部ですけど、それも無理な数じゃない。一〇年、二○年、三○年かけて、必要な読者に届けばいいんです」

 秋峰善『夏葉社日記』p65

 

 やっぱり、需要が先ではなくてもいいんだ、と思った。先日、職員に研修をしていて、同じような話をしていた。ニーズと提案の綱引きが大事だって。職員が、そうでしょうか、と呟いたのを訊いて、再度、私自身も考えていた内容だった。

 

 要するに、島田さんは修行のように本を読んできたのだ。見せてくれた読書ノートは、その証である。あえて長編を選んでいるということだろう。読み続けることで、本を読むための筋肉のようなものが自然とつくらしい。島田さんは昼休み後の30分、寝る前の30分、計1時間を読書の時間に充てている。

 秋峰善『夏葉社日記』p148

 

 島田潤一郎さんが、秋峰善さんを雇用するにあたり、昼休憩の30分間、読書をして欲しいこと、ふだん読まない難しい本を選んでほしい、と伝えたことの理由がわかった。私も、何度となく、すぐに読めなくなった、読むのをやめた本を最後まで読んでみようか、と思った。

 『夏葉社日記』も終盤に差しかかったところで、島田潤一郎さんが、秋峰善さんを雇用した理由が、「年下の人たちの存在に希望を感じる」ようになったからです、と書かれていて、希望か、と思った。

 私が、今、若い職員と働いているのにも、希望を感じているのだろうか、だから、本気で関わろうと思ったのだろうか、私が20代の頃、木藤瑞穂さんと出会い、こんな30代になりたいと思ったように、自分もそんな大人になりたいと思って生きてきたことをつらつらと思い出していた。

 

 夏葉社の経営を知れば知るほど、不思議であった。これといって、再現性のある戦略があるわけではない。だれがやっても上手くいくものでもないだろう。だからといって特別に難しいことをやっているわけではない。ある意味では、だれにだってできることだ。島田さんの人柄や能力、夏葉社の本の力ということもあろうが、決め手は島田さんの姿勢だろう。ありていにいえば、謙虚さである。でもそれは自分を低く、相手を高く見積もるということではない。ひとりの人間として、自分も相手もバカにしないということである。

 秋峰善『夏葉社日記』p167-168

 

 最近、コミュニケーションのことをよく考える。コミュニケーションを考える上で、信頼関係のことも考える。コミュニケーションを考える前に、信頼できる人は、どういう人かを考える必要があるのではないか、と思うに至る。

 

▼秋峰善さんnote

https://note.com/natsuhasha1

生きる意味とは?生きる価値とは?

 テレビをつけ、昨夜の地震のニュースを見るとはなしに見ながら、シャツのアイロンがけをして、アイロンがけが終わると、自室の掃き掃除をした。こんな埃の中で寝ていたのか、と思った。本棚の整理をしている時に、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』が目に止まり、開いて読んだ。

 

 アレンカ・ジュパンチッチという哲学者が、大変興味深く、そして、大変恐ろしいことを述べている。少し言葉を足しながら紹介しよう。近代はこれまで信じられてきた価値に代わって、「生命ほど尊いものはない」と言う原理しか提出できなかった。この原理は正しい。しかし、それはあまりに「正しい」が故に誰も反論できない。そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力をもつようになってしまった。

 だが、それだけではない。人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。だから、突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。例えば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂言者たち。人々は彼らを、恐ろしくも羨ましいと思うようになっている。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p28

 

 ここ最近、生きる意味は、生きる価値は、ということを考えていて、生きる意味なんて、なく、ただ、ただ、生きるだけではないか、と、以前、考えていたのが、現時点での私の考えだ。生きる前提として、存在そのものの肯定が大事だと思っているけれど、それは、『暇と退屈の倫理学』からいくと、あまりに「正しい」。正しいが、・・・、となるのかもしれない、と思いながら、アレンカ・ジュパンチッチの言葉を読みながら、だから、私は20代の頃、何かを成し遂げたい、と何かを探していたのだろう、と思い出したりした。

 『暇と退屈の倫理学』を読み進めると、17世紀のフランスの思想家、ブレーズ・パスカルのことが書かれていた。

 

 人間の不幸などと言うものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p34

 

 部屋でじっとしていられないとはつまり、部屋に一人でいるとやることがなくてそわそわするということ、それにガマンがならないということ、つまり、退屈するということだ。たったそれだけが、パスカルによれば人間のすべての不幸の源泉なのだ。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p34

 

 おろかなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしを求めているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言うのである。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p35

 

 パスカルの考えるおろかな気晴らしにおいて重要なのは、熱中できることという要素だった。熱中できなければ、自分を騙すことができなから気晴らしにならない。

 では、さらにこう問うてみよう。熱中できるためには、気晴らしはどのようなものでなければならないのか?お金をかけずにルーレットをやっても、ウサギを楽々と捕えることのできる場所で狩りをしても、気晴らしの目的は達せられない。

 つまり、気晴らしが熱中できるものであるためには、お金を失う危険があるとか、なかなかウサギに出会えないなどといった負の要素がなければならない。

 この負の要素とは広い意味での苦しみである。苦しみという言葉が強すぎれば、負荷と言ってもいい。気晴らしには苦しみや負荷が必要である。

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p42-43

 

 妻が仕事に行く時間になったので、私は、妻を送り、コメダにそのまま向かった。いつもの、アイスコーヒーたっぷりとモーニングを注文して、iPadを開こうと鞄を開いたら、iPadのキーボードしか鞄には入っておらず、鞄に入っていたMac book airで日記を書こうと思って、電源を入れるが、あまりにも久しぶりで、パソコンに入るログインパスワードが思い出せない。

 先日、読み終わった最首悟『能力で人を分けなくなる日』に書かれていた人間の意味について思い出していた。

 

 「人間」はもとは「じんかん」と読んで、「人と人のあいだ」。つまり人が互いに関係しあっている場所のことなんですね。ということは、私たちは「人間」と言う時に無意識に「場」と言うことを言っている。場に、いろいろな事物や人がいて、つながっているという感じなのね。

 そして、人間がそういう関係の場なのだとすると、人の単位はひとりではなく、最低ふたりなんじゃないか。あらゆる関係の起点としてね。まず私があるのではなく、まず「あなた」との関係があって、その中で「私」ができていく。

 そのことを私は「二者性」と呼んで、ここのところずっと考えています。

 最首悟『能力で人を分けなくなる日』p18

 

 どこかでアイデンティティについて書かれているを本で読んだ時にも同じようなことが書かれていた。どこで読んだのだろう、と日記を読み返したが、どの本かはわからなかった。部下がいるから、私は上司であり、妻がいるから私は夫である、そんな話だった、と思う。

 人には、間が必要。私は、「間」がつく漢字は、どのようなものがあったかを考えた。居間、世間、時間。「間」の語源ってなんだろうか、と携帯電話で調べた。

 旧字は、門と月から成り、夜に、門の隙間から月が見えることから、すきまの意を表す、と書かれていた。

 では、人間は?と調べると、人の住むところ。世の中。世間。人が生きている人と人の世界であり、仏教用語との書かれていて、私が、人間だと思っていたのは、人のことだったのか、と考え、人には、やはり間が欠かせないのではないか、もはやセットと言っても過言ではないということなのか。

 人は一人で生きていけないとはいうが、確かに、この乗っている車も、誰かが作ったもので、ペンも、紙も、誰かの仕事で、私の生活は成り立っている。だけど、この考えだけでいくと、生産性の話になり、では、生産性がなければ生きている意味がないということになるのだろうか。

 そんなことをずっと考えていたら、調子が悪るくるなるような気がする、と頭をよぎった。

 

 

 

納車式がすごい

 今日は、新車が納車される日。私は、ディーラーに向かう道中、初めて新車を購入した日のことを思い出していた。

 ちなみに、初めての自家用車は、自分で買ったものではない。就職してまもなく、大学時代の友人の家族からもらったものだった。日産、サニー。しかもタダで。今、考えると、あり得ない話で、なんて、ありがたい話だったのだろう。

 そのサニーを数年間乗っていたのだが、高速道路で仙台に向かう途中、黒い煙を吹き出し、突然の廃車。突然の別れ。急遽、車を買う必要に迫られ、初めて自分のお金で、新車を買ったのである。値切ることもままならない状態で。頭金は、端数の数万円だった。

 当時、新潟に住んでいたのだが、新車を受け取ったその日に、車を運転していたくて、あてもなく運転していたら、新潟から静岡まで車を走らせていた。日本海から太平洋へ。納車されたその日に車中泊をした。海の近くの駐車場だった。

 今は、それほどまでのテンションにはならないし、明日は、仕事だからそんなこともできないが、新車が楽しみなことに変わりはない。

 ディーラーに到着して、営業の方と、もろもろの打ち合わせや手続きを終え、納車式と呼ぶものをしてもらった。

 一人、また一人と、ディーラーの人が、私に名刺を渡し、最後は、花束をもらった。劇団四季のステージ挨拶を思い出した。嬉しい納車式だった。

 メーカー共通の接客なのか、この店舗の方針なのか。営業の方の名刺の渡し方、私がディーラーを訪れた時に、外まで迎えに来てくれたり、店内では立って挨拶をしたり、感心のしっぱなしで、私も見習うべき対応だなと思っていたが、納車式は、また格別だった。

 新車の匂いを感じながら、一旦、自宅で昼食を食べ、少しだけ休憩してから、北海道神宮で車祓いをしてもらい、欲しかった秋峰善『夏葉社日記』を購入しにシーソーブックスを訪れた。いつものように、欲しかった本だけではなく、最首悟『能力で人を分けなくなる日』を購入した。

 で、自宅に帰ってきて、早速、最首悟『能力で人を分けなくなる日』を開いた。この間で考えるシリーズを読むのは、2冊目だった。

 

 ・・・<わからないこと>は希望である、というふうに開けてきました。わかろうとする努力は、「結局は、わからない」とあきらめるではなく、<いのち>を生きていく希望なのです。

 最首悟『能力で人を分けなくなる日』p3

 

 なぜ?と思いながら読み進めていくと、問学という話になる。初めて聞いた言葉。

 

 問学は、「学問」をひっくりかえした形の言葉です。私は「なぜなぜ坊や」でね、常に問いはある。答えはいつもとりあえずの仮の状態のもので、問い飲みが常にある。そういう枠組みでの思考を「問学」として、これからやっていこう、と。それが、なぜ生きていく希望になるのだろうか。

 

 

 

 

会話は難しい

 シャツのアイロンをかけながら、ここ何日かのことを思い出していた。こうして手を動かしながら考えることって大事だよな、とか思いながら。

 私が最初に就職した職場は、転勤のある職場だったから、転々としていたのだけど、よく思い出すのは、初めて赴任した職場のことだった。

 正義感や責任感や自尊心、そんな諸々の感情から、よく職場で喧嘩のようになっていて、一言で言えば、人間関係で悩んでいたのだけど、私は、コミュニケーションを取らずして、やり取りできないものかと思っていた。

 もう何十年も前のことだから、記憶は曖昧になっているけれど、私にとって、都合の悪い発言をしたことがあり、そんなことは言っていないと嘘を言ったことがある。一対一のコミュニケーションだから、言った、言わないの話にしようとした。あとで、別の職員から、嘘を言うなと戒められた。その場面をたまあに思い出して、私は、恥ずかしくなる。

 

 三木那由他『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニュピレーション〜』を読んだ。

 三木那由他さんは、本著の中で、コミュニケーションとは、話し手と聞き手の間で、約束事が形成されると述べている。

 言った責任、聞いた責任が伴うということは、働いていると感じる機会がある。私は、相手がやると言ったのに、なぜ、その仕事をやってくれないのだろう、あれ、話したこと忘れたのかな、と思いながらも言うのを止めることもある。約束をしたわけではないけれど、コミュニケーションが、そもそも約束事を形成することで成り立っているのであれば、約束を反故することになるわけだから、当然、信頼を失うことになる。

 

 フリッカーは、社会的マイノリティはそのマイノリティ性ゆえに、同じ条件のもとでは知識の主体としての能力をマジョリティに比べて疑われやすくなる傾向があるという議論を展開しています。

 三木那由他『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニュピレーション〜』p178

 

 コミュニケーションがすれ違った場合の擦り合わせは、当事者同士のあいだで済ませる場合にも、それでは済まず周囲の人間への訴えかけがなされる場合にも、どうしようもなく会話参加者同士の力関係や社会的位置に影響されることになります。力が弱いものは当事者同士の交渉で不利になるし、社会的マイノリティは周囲への訴えかけで不利になるでしょう。

 三木那由他『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニュピレーション〜』p183

 

 だとすると、意味の占有は周囲に高い地位のひとがいればいるほど、そして利用できる社会制度が多ければ多いほど実行しやすくなると言えそうです。貧しいひとよりも富めるひとが、部下よりも上司が、生徒よりも教師が、女性よりも男性が、社会的マイノリティよりも社会的マジョリティが、それをおこないやすい立場にあります。それゆえにそれは、差別ともストレートにつながっている現象です。・・・(中略)そうしたときに、その差別の訴えが意味の占有によって捻じ曲げられてしまっている可能性、そしてあなた自身が意味の占有者による働きかけの対象として利用されている可能性を意識するようにすることは、現代の社会において非常に重要なことだと思います。

 三木那由他『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニュピレーション〜』p184-185

 

 私は職場において、少数派だった時代があるから、上記の内容は、非常にわかる。意味の占有というものがあり、意識することが重要だということは、わかったが、読みながら、仮に、逆の場合もあるよな、とも思う。例えば、パワーハラスメントは、パワハラです、と訴えた方が有利になるような気がするし。どちらにせよ、コミュニケーションには、意味の占有だったり、コミュニケーションの暴力が起こりうるということを意識することは大事なことであることに変わりはないだろう。

 昨日の夜に、東京に住む元部下から5月末に退職することにした、とLINEが来ていたのを思い出した。上司や代表と会うのがストレスになり、打ち合わせが怖くなり、職場で笑えなくなってきたので、退職を決めたという内容だった。私は、体と心が、まずは大事だから、といつか、人生の先輩にかけてもらった言葉を、LINEで返信した。

 私の頭の中には、つい先日、疎外感を感じるという管理者のことや、いつしか仕事が辛いと言った人に、私がかけた言葉を思い出していた。前向きな言葉だけが、人を救うことにならないよな、と考えながら。

 

異国で迷子

 午前11時頃、車を運転していると、歩道を歩くパキスタン人の小さな女の子が、手を挙げたようにも見えた。何か、助けを求めているようにも感じたが、反対車線だったから、一度は、そのまま通り過ぎ、バックミラーで、その女の子を追った。女の子は車道に出て、車を止めようとしているようにも見え、やっぱり、何か困っているんだ、と引き返した。

 女の子は、一台の車を止めることができたようだったが、しばらくして、その車は、そのまま行ってしまった。私はスーパーの駐車場に車を停め、女の子のところに歩いていった。何か困ってるの?と声をかけると、女の子は泣いていて、答えてくれない。日本語が通じないようだ。女の子は、私の車のところで止まり、車に乗せて欲しいようだったので、乗っていいよ、とドアを開け、どこに連れて行って欲しいの?小学校?と聞くと、頷いた。頷いているが、本当かどうかが微妙で、職場に英語が話せる職員がいたのを思い出して、女の子に、会社に寄るね、と伝え(伝わっていないが)、会社について、玄関で電話をし、英語が話せる職員に来てもらった。だが、英語で話しても通じず、とりあえず、小学校に向かい、建物の前で、ここ?と尋ねると、女の子は、首を振る。幼稚園なのかな、と今度は幼稚園に向かい、建物の前で、ここ?と尋ねるも、女の子は、首を振る。

 途方に暮れていたところで、後部座席に女の子と一緒に座っていた職員が、この鞄って、この女の子のですか?と私に訊く。鞄の中に、住所が書かれているものがありませんかね、と呟き、女の子に鞄を開けても良いか尋ねる。私も鞄を注視する。鞄の中からは生活という教科書が出てきて、どこの小学校に通っているかわかり、その中にはプリントもあって、プリントには、学校の電話番号も書かれていたので、学校に電話をかけ、これから向かうと伝えた。

 小学校の登校時間は、8時台だから、スクールバスを3時間ほど待っていたけど、一向に来なかったから、途方に暮れて歩いたのだろう。もしかしたら、今年の4月から、日本の小学校に通うようになったかもしれない。

 学校に近づくと、先生なのか、事務職員なのかはわからぬが、外で出迎えてくれて、その女の子の名前を知っているようだった。女の子は、暗い表情で車を降りた。先生と思しき大人は、私たちにお礼を伝えるよう女の子に伝えるが、女の子は、俯くまま。私は、お礼は良いよ、とにかく、よかったね、じゃあね、と別れた。

 私は、携帯電話でパキスタンの位置を確認した。ネパールがインドに隣接していることは知っていたが、パキスタンもなんだ、と初めて知った。本当のところ、その女の子がパキスタン人かどうかはわからない。スカーフをし、腕にはアクセサリーと呼べば良いのか、オシャレだな、と思った。また、どこかで会うことができたら良いな。

ひいらぎ

 春になったし、歩こうと思って、札幌まで、バスで向かうことにした。バスを待つまでの間、ジョン・グレイ『猫に学ぶ』の続きを読んだ。風が強いし、寒くて、本を持つ手を交互にポケットに入れた。

 バスに乗車してからも『猫に学ぶ』の続きを読んだ。車を運転するよりも、こうして読書ができるほうが、良い時間の使い方だと思った。

 札幌ファクトリーでバスを降り、歩いて、珈琲・軽食ひいらぎに向かった。妻が先日、訪れた喫茶店で、妻の話を聞いていたら、私も行きたくなった。雨が少しだけ降ってきたので、今のうちに傘を買おうと思って、コンビニで、傘を買ってから、珈琲・軽食ひいらぎに到着した。

 手書きの絵と手書きの字のメニュー。私は、喫茶店では、たいていアイスコーヒーを注文するのだが、寒かったので、チャイにすることにした。チャイとピザトースト。店内は、手入れが行き届いているというか、大切にされている感じがした。『ひいらぎ』の花言葉を携帯で調べた。用心深さ、あなたを守る、保護、剛直、先見の明、歓迎。どんな想いを込めたのだろう。

 ピザトーストを食べながら、『猫に学ぶ』の続きを読んだ。

 

 時とともに死に近づいているという無力感から身を守るために、人間は自我を作り出したのだ。

 ジョン・グレイ『猫に学ぶ』p130

 

 自我?なぜ自我を作り出す必要があったのだろうか。よくわからない。チャイも飲み干して、ひいらぎを出ると、空は曇りだが、雨は降りそうもなかった。なんのために傘を買ったのだろうか。シーソブックスにも行きたかったけれど、寒いので、帰ることにした。札幌ファクトリーのバス停に戻り、時刻表を見ると、40分後だった。40分は長いな、と思った。

 札幌ファクリーの店内に入り、猫喫茶のような店の前のベンチに座って、『猫に学ぶ』を読んだり、猫を見ながら、あいかわらず猫はかわいいな、と眺めた。

 

 次の日、仕事から帰ると、妻は、私たちが飼っていた猫が夢に出てきた、と喜んでいた。

なりたい自分とか、自己実現とか、言い過ぎじゃないだろうか?

 来週、新車が納車される。現在、乗っている車の保険の解約や定期点検の解約の手続きをするためにディーラを訪れた。この手続きが終われば、この営業の方ともお別れだ。諸々の書類の記載が終わり、席を立った。営業の方は、あまりにもあっさりとした挨拶だった。今後、つきあいがなくなるからなのだろう。今後のために、今、どう立ち振る舞うかを考えないのだろうか、と店を後にした。最初の印象は悪くなかったのだが、いつからか関係が悪くなった。直接的に、何かがあったわけではないが、お互い、合わないな、と思っていただろう。私は、その人の笑い方が嫌いだった。

 ディーラーを出て、妻から頼まれた猫の仏壇に飾る花を買うために、蔦屋書店内にあるFlower Space Gravelに向かった。蔦茶書店の店内に入り、見るとはなしに棚を眺めながら、歩いていると、『みすず書房フェア』の棚があり、足を止めた。ここまでみすず書房の本が並んでいるのを、これまで見たことがなく、タイトルを眺めていると、読んでみたくなって、手に取った。本の値段を確認し、高いな、とは思ったが、欲しいと思った書店で本を買うほうが良いとも思って、3冊、レジに持っていった。1万円を超えた。

 Flower Space Gravelで、ラナンキュラスとガーベラを一輪ずつ購入して、蔦屋書店を後にした。みすず書房の本を読むのが楽しみだった。

 遅めの昼食になるな、と時計を見ながら、space1-15へ。二度目のトロイカで、ボロネーゼを注文し、買ったばかりのジョン・グレイ『猫に学ぶ』を開いた。

 

 猫は哲学を必要としない。本性(自然)に従い、その本性が自分たちに与えてくれた生活に満足している。一方、人間のほうは、自分の本性に満足しないことが当たり前になっているようだ。人間という動物は、自分ではない何かになろうとすることをやめようとせず、そのせいで、当然ながら、非喜劇的な結末を招く。猫はそんな努力をしない。人間生活の大半は幸福の追求だが、猫の世界では、幸福とは、彼らの幸福を現実に脅かすものが取り除かれたときに、自動的に戻る状態のことだ。それが、多くの人間が猫を愛する最大の理由かもしれない。人間がなかなか手に入れられない幸福が、猫には生まれつき与えられているのだ。

 ジョン・グレイ『猫に学ぶ』p6

 

 こんなに大真面目に、猫について考察し、書かれているのもうけるな、と思った。ウケるという表現が適切ではない感じもするが。手を止め、ボロネーゼを食べた。茹で加減がちょうど良い。

 『猫に学ぶ』を読みながら、仕事に、なりたい自分、自己実現を求めすぎているのが、現代の若者を苦しめているのではないか、と頭を掠めた。しかも、就職して数年で、なりたい自分になんて、到底、なれない。なりたい自分を持つことが悪いというわけではない。バランス。仕事だ。給料が支払われているのが、どこかに行っている。なりたい自分もいいけれど、やらなければならないというか、使命みたいなのを感じながら働くのも悪くない。自分のためばかりだとモチベーションの維持が難しくなるけど、使命を感じると、モチベーションで仕事をしなくなる。

 遅めの昼食を食べ、Anorakcity Storeに寄って、インスタで紹介していたブルーグレーのパンツを購入した。