北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

全員野球

 仕事を終え、いつもより遅くに帰宅して、テレビをつけたら、野球準々決勝、日本対アメリカの試合をしていた。今日だったの?予選リーグ1位同志の日本とアメリカがなぜ、この段階で戦っているの?と、愕然とした。

 今回の決勝トーナメントは、一度、見ただけでは理解できない、これまでにない変則的なトーナメントになっており、予選リーグを首位で勝ち上がった日本は、当分、試合がないものだと勘違いしていたというか、決めつけてしまったというか、そもそも日程を確認していなかった。それはそうと、なぜ、早く帰宅しなかったのか、なぜ、録画をしなかったのか、と、自責の念に駆り立てられながら、試合は7回。5−6で日本は負けていて、この試合を負けても、復活できる変則的なトーナメントになっているのだろうか、よくわからないまま、画面に釘づけになった。

 ご存知のとおり、9回裏に6−6と追いつき、10回表に栗林が、無失点に抑え、その裏、栗原のバント、甲斐のサヨナラという展開で、今大会2度目のサヨナラ勝利を日本がおさめた。たまらない試合だった。

 一夜明け、パソコンの電源をつけて、ティーバを開いた。日本対アメリカの試合がないものか、と。あった。良い時代になった。

 まずは、試合後の稲葉監督のインタビューを見た。このアメリカ戦で、全員が出場したということを知った。全員野球と言っても、全員が試合に出るわけではなく、そもそも試合に出るのが、全員野球の定義ではないと思うが、全員が試合に出場することによって、否が応でも、一丸になっていくというか、自分ごとになっていくというか、必要なことだな、と改めて思った。稲葉監督の選手起用は、選手への愛情を感じる。

 こうして、私は、日本対アメリカの準々決勝をもう一度、観ながら、このブログを書いている。

 キーマンとなる選手は、日替わりというか、複数人出てくるのが、勝ち続けていく秘訣のような気もするが、私が、特に注目しているのは、柳田。6番柳田。柳田は、これまでも当然、日本代表に選出されても良い、実力の持ち主であり、成績も残していたが、タイミングが悪いというか、世界戦がある時に限って、故障して、選ばれないというのが続いていて、そのたびに、残念に思っていたわけだが、今回、やっと、万全な状態で出場してくれていて、活躍してくれている。柳田は、上位の打順どこでも良いくらいの選手だが、6番柳田を見ながら、もちろんもったいないという意見もあるだろうが、6番柳田は、良い。クリーンアップが6番まであるような感覚になる。

 あとみてみたいのは、栗原のスタメン出場。こう書くとソフトバンクファンみたいだが、栗原を初めて見たのが、日本シリーズの時で、こんな短期決戦の時に力を発揮しそうだ、というのが、その理由。もしくは、近藤のスタメン。ただ、近藤は、代打の切り札的存在として頼りになるから、やはり、栗原か。7番栗原を見てみたい。

 

ふと

 20代の頃は朝が辛くて、出勤時間ギリギリに出勤していた。朝が辛いというか、仕事が辛かった。

 今は、朝、起きるのが苦ではなく(年齢を重ねた良かったことの一つ)、出勤時間の1時間前には職場に着き、仕事をすることもあれば、車の中で読書をすることもあって、今日はというか、今日も、滝口悠生『長い一日』を読んでいた。

 初めの頃は、滝口さん目線で、滝口さんの妻の目線になり、気づけば、窓目くん目線で物語が語られ、こんな小説の書き方もおもしろい、と思いながら、読みながら、別なことが頭を過ぎって、本を閉じた。

 別なことというのは、本を読む前に見ていたツイッターの一文で、”お互い背負っているものがあるから話がおもしろい”というもので、背負っているものかあ。俺、背負っているものないなあ。お気楽なポジションだもんな。と、思った。

 仕事を終えて、自宅に帰ってきて、テレビをつけると、当然のように東京オリンピックが流れていて、池江璃花子がリレーに登場するところだった。池江璃花子を観るたびに、良かったな、と思う。見入ってしまう。

 水泳を見ながら、ロシアオリンピック委員会って何?と思った。ずっと気にはなっていた。とうとう携帯で調べる。

 組織的なドーピング問題でロシアは2022年12月まで主要国際大会から除外されており、ROCロシアオリンピック委員会)として違反歴や疑惑がない選手のみ、個人資格で五輪出場が認められているとのことで、ああ、そんなことあった気がすると思った。

 オリンピックやニュースを見ながら、滝口悠生『長い一日』の続きを読んだ。

 窓目くんは、一度行った美容室に二度と行かない考えで、それに従うならば、草壁さんが窓目くんの髪の毛を切るのは今日を限りに最初で最後だ。毎日何人ものひとの髪の毛を切って、一年に何百人もの髪の毛を切る草壁さんは、一度しか切らなかったひとの髪の毛を忘れてしまうのか。それとも、名前も顔もなく、ふと一度しか出会わなかった髪の毛のことを思い出すこともあるのだろうか。あるよ、と草壁さんは言った。滝口悠生『長い一日』P149

 ここの場面、具体的には、最後のあるよ、の草壁さんの一言が、キュンとしてしまった。草壁さんに、恋をしてしまいそうになった。

 実際のところどうなんだろう。美容師さんだけではなく、客商売をしている職業は、この一度きりしか会わない出会いというのがあると思うんだけど、ふと思い出すことがあるのだろうか。

 思い出す人もいれば、思い出さない人もいるというのが正しいところか。

 窓目くんにしてもそうだ。一度行った美容室に二度と行かないということは、毎回、毎回、美容師さんが変わるわけで、草壁さんのように印象深い人もいれば、当然、顔すら思い出せない美容師さんもいるのだろう。客側と店員側でまた違うのか。では、その印象とはどのように与えるものだろう。と思った時点で、そもそもそんなことを考える必要もないことだと思った。ここで大切なことは、草壁さんのように、一度きりしか出会っていないにもかかわらず、思い出してくれることがあるというだけで十分ではないか。一度きりとかじゃなくて、友人でもなんでも良いんだけど、自分のことをふとした時に思い出してくれることがあるとしたら、それは、それは嬉しいことだよな、と思ったが、ふと思い出してるよ、と聞く機会はない。

 

 

やるべきことを疎かにしていると運が逃げる

 朝ごはんを買いにコンビニに向かう途中、夏休みっぽいな、と思った。空気というか、景色というか。

 そういえば、Twitterで、読書感想文を書くためのテンプレートが便利、という書き込みを読んだ。①本を選んだ理由、②あらすじ、③うんぬんかんぬんと続く。

 読書感想文が苦手だった。読書をさせるというのが目的なら、読書感想文という方法が適切ではないような気がする。私は、読書感想文を、どう書いて良いかわからなくて、本の一番後ろにある解説を参考にして書いたことがある。当時、なかなかの発見だと思っていたが、今にして思えば、こいつ、解説を写してるなってわかるよな。確実に。

 コンビニで、アイスコーヒーを淹れながら、道外に住んでいる時は、帰省すると、会えるだけ友達と会っていたけれど、こうして、いつでも会えるとなると会わないもんだな、と何人かの顔を思い出した。

 そんなことが頭を過ぎったのも、滝口悠生『長い一日』を朝に読んでいたからで、『長い一日』に、いつの時代の友人なのかはわからないが、大人になっても、その友人たちと会っている場面が綴られていた。

 友人の中に窓目くんという人がいる。窓目くんは、中年になってから、チャックが開きっぱなしのことが増えたということが書かれていて、あっ、俺もだ、と思った。チャックが開いているのは、ズボンのせいではないか、と思っていたが、私のせいだった。

 

 東京オリンピックは、とうとう野球日本代表の初戦だった。ドミニカとの試合だった。解説って誰なんだろうと思った。録画で観たら、宮本慎也だった。なかなか鋭い解説だった。9回の表。ドミニカは1点を追加し、3−1とした。宮本は、本気で走っていれば、もしかしたら4−1になっていたかもしれないといった。やるべきことを疎かにしているとツキが日本に来るというようなことを言っていた。自分の仕事も同じことだと思った。調子悪いなあと思った時に、基本に戻ろうと自分に言い聞かせてきたけれど、あながち間違っていなかったかもしれない。

 宮本の予言通り、日本は9回裏に逆転した。

 9回に1点を追加された時点で、私は負けたと思った。現に、9回裏を待たずして、病院に向かった。出かけなければならないギリギリの時間まで、野球を観ていたとも言えるのだが。で、車のナビで続きを聴いた。気になって、コンビニの駐車場に車を止めて観戦した。山田哲人の笑顔を見て、山田哲人好きだな、と思った。車の中で、拍手してはしゃいでる私を見た見知らぬ人は何事だろうと思っただろう。

 

 

 キャンプをした朝のような肌寒さだ、と起きた。窓を開けっぱなしで寝ると、こうなる。

 ノートパソコンが正常に起動しなくなり、サポートセンターに問い合わせた。いくつかの方法を試すが、故障ですね、と告げられる。あまりにも突然の出来事だった。前日まで、普通に使えていたのに、まるで遠隔操作で破壊されたとしか思えない。修理には4〜5万円がかかると言う。4〜5万円出すのであれば、新しいのを買った方が良いのではないか、と思った。

 高校野球南北海道大会決勝を円山球場に観戦しに行こうか迷う。が、億劫になりやめる。やめて、YouTubeを見ながら、気づいたら寝ていて、起きたら12時を過ぎていた。やきそば弁当を食べながら、テレビをつけると、南北海道大会決勝をやっていた。思いのほか、観戦者が多くて、やっぱり行かなくて良かったと思った。北海が8回に逆転し、そのまま甲子園の切符を手にした。センバツにも出場したらしく、そういえば、センバツの記憶がないな、と思った。

 コートや礼服なんかをクリーニングに出しに行き、キャンプに使用する革手袋を買いに行こうと思ったが、行こうと思った店が定休日で、公園に松ぼっくりを拾いに行った。松ぼっくりは火がつきやすいと訊いたので、試してみたくなった。ゴミ袋に松ぼっくりを入れていく。見る人が見れば、私は公園を清掃している人に見えなくもない。が、誰にも遭遇しない。

 車で外気温を確認すると今日も30度を超えていた。当たり前のように30度を超える。例年になく暑い日が続いているような気がする。久々に雪駄で過ごそうかな、と思って、靴屋に行った。一軒目の靴屋には雪駄が置いていなくて、雪駄を置いていないってあるのかなあ、と二軒目の靴屋に行くが、二軒目の靴屋にも、雪駄が見当たらず、店員に、雪駄ありますか?と訊くと、今年、入荷ないんですよ、と返って来て、雪駄が入荷しないって、どんな理由なのだろう?と、思いながら、店を後にした。

 玉ねぎとピーマンを切り、車から椅子を出して、焚火台に焚きつけを起き、公園で拾ってきた松ぼっくりをのせ、その上に炭をのせていく。確かに、松ぼっくりはあっという間に火が着いた。焼き鳥を焼き、ひっくり返しながら、塩こしょうをかける。この一連の動作がたまらない。初めて使用したテーブルもちょうどいいし、火消し壺も使い勝手が良い。3回目にもなれば、火を起こすのも、焼き鳥を焼くのも手際が良い。スーパーで購入した焼き鳥で、普通に美味しかったが、今度は、精肉店を見つけて買おう。

 夕飯を終え、ソファに寝っ転がり、東京オリンピックの女子ソフトボール決勝を観ながら、手斧を携帯で探す。そもそも薪を切る道具に、斧、鉈、ナイフがあるけれど、どう使い分ければ良いのだろう、とネットで調べながら、斧かなあ、となる。やっぱ、夜に焚火したしなあ。焚き火するためにキャンプしているところがあるからなあ。だけど、斧はなくても良いもののような気もする。そんなことを考えていたら、斧をかっこよく収納できるリュックをメルカリで見つける。フロストリバ−732というものらしいのだけど、7万円もする。リュックに7万はなあ。だけど、リュック欲しいなあ。リュックにキャンプ道具を綺麗に収納したいしなあ。キャンプは、道具集めもおもしろい。 

不具合

 パソコンが、ブーンという起動音が鳴るのに、画面が真っ暗なままで、何度か試しても、同じ状態で、昨日は、普通に使えていたのに、なぜ急に?ウィルス?遠隔操作?と、ここのところ、あらゆる箇所に不具合が生じる。ちなみに、会社のパソコンはなぜかWordだけが使えなくなった。

 ここ最近の一番の不具合というか、頭を悩ませているのが、部下のミスの多さ。久々さに、ここまで怒ったなあと思うほど、怒った。

 同僚からは、私の部署の部下が疲れた顔をしてると言っていた。それを部下に話すと、これ以上、喝を入れるのはやめてくださいと言う。何だこの野郎と思ったが、意固地になるところでもない気もするというか、ここは寛容に、穏やかにいかなければ、余計に負の連鎖に突入するのではないかという気もしている。

 人類が、火と出会ったのは、山火事が初めてで、焼け焦げた動物をたまたま食べたら、美味しかったから、人類は、火で調理をすることを初めたんだよ。で、火を見たら、わくわくするのは、その頃の歓喜の記憶がDNAに刻まれてるというわけ。と、焚き火台の火をいじりながら、私は、職場の後輩に適当な話をした。

 今年、2回目のデイキャンプ。前回のデイキャンプを1回目とすべきかは迷うところだけど、会社の同僚2人とキャンプをした。その1人は、大学時代は山岳部で、大学時代には、塩と米のみで2泊3日のキャンプをしたことがあるという話をキャンプ場に向かう前に話を訊いた。1日目は、魚が釣れなくて、塩ご飯のみで過ごしたと言っていた。

 キャンプ場は、連休もあってのことなのか、たくさんの人がいた。子どもたちもたくさんいて、私たちの目の前の小川で川遊びをしていた。

 ラムチョップを包丁で切る後輩を横目に見て、そもそも手を洗った?と私は訊いた。最近、感染対策に気を使ってるから、手を洗ったかどうか気になるんだよ、とウェットティッシュを投げて渡した。

 焚き火台で、火を起こしたいということもさることながら、焼き鳥を焼きたいというのが、私のキャンプをしたい理由で、ひっくり返しては、塩こしょうをまぶしていく。2人は、おいしいんだけど、しょっぱいと言う。焼き鳥を食べながら、もぎたてのきゅうりとミニトマトに齧りつく。外で食べる野菜がおいしかった。

 自宅に帰って来て、東京オリンピック2020をテレビで流しながら、ネットで軍の払い下げのリュックを眺めながら、欲しいなあと思うが、なかなか値が張るので、もっと安くて良いものがないかを探すことにした。

人類学

 たまたま目にしたPOPEYE『SUMMER READING2020』を読んでいた。そこに紹介されている一冊の本が目に止まった。

 ”差異に溢れた人間たちがともに生きるための人類学”と、紹介されていたその本の名は、松村圭一郎『はみだしの人類学ともに生きる方法』だった。これまで人類学について学ぶ機会はなかったけれど、仕事のヒントがある気がして、購入してみた。

「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。

 他者とのつながりによって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』p77-78

  仕事をしていると、まずは自己を知れ、という話を聞く。だけど、最近、その考え方に疑問を持っている。なぜなら、自分の強みや弱みって、そもそもどんな他者といるかによるのではないか?Aという集団の中では、周りよりもできるから強みだったものが、Bという集団の中では、周りよりもできなければ弱みに転じる。

 個性も、出そうと思って出すものではないと思っている。滲み出てくるもの。出そうと思っても、出てくるものではないのだろうか。

 たとえば、「イスラムの文化を学び、尊重しましょう」と考えること自体が間違っていると思う人はあまりいないと思います。それでも、そこには日本文化とイスラム文化を切り離された存在として見ようとする姿勢があります。これではすでに引かれた境界線を前提にその差異を再確認して、境界線自体を強化してしまっている。

 どうすれば、その差異を乗り越え、境界を揺るがすことができるのか。それこそが異文化理解の目指すべき姿勢なのに、乗り越えがたい差異があると考えるところからはじめている。・・・。

 「わたしたち」と「かれら」の境界線は、ひとつの固定したものではありません。むしろ複数の線の引き方があります。イスラムを信仰している人のなかには男性もいれば、女性もいます。だとしたら、「日本人」と「イスラム教徒」という線の引き方だけが唯一の方法ではありません。松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』p81-82

  これって、日本人とイスラム教徒の話だけど、同じ日本人でも、障害のある人とない人との関係でも同じことだな、と思ったわけ。つまり、人類学の思考方法は、社会福祉学でも参考にできるところはある。

 異なる複数の境界線を引くことが既存の境界を乗り越えるために必要な想像力になります。だから「異文化理解」を考えたいのなら、ほんとうに「異文化」なのかどうか、どんな意味で「異文化」とされてきたのか、そこで引かれている境界線とそれに沿って見いだされている差異そのものを疑うところから始めないといけない。

 複数の境界線を引いてみると、どの境界線によって浮かび上がる「差異」も、けっして絶対的なものではなくなります。国や宗教の違い以外にも、私たちはさまざまなに異なっている。そう考えると、日本と外国を最初から「異文化」だとみなす考え方が、いかに狭い見方かがわかるでしょう。松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』p83

 たとえば、SFのように、地球外生命体が地球に攻め込まれたら、地球は一つになる気がする。それって、結局、境界線が狭いか、広いかの話で、結局は、同じことなのではないだろうか。日本の戦国時代は、日本の中で戦争していた。それが、日本対外国で戦争をするようになる。それが、地球対地球外生命体になる。そう考えると、人類は、境界線を引いてしまう生き物なのか。

 本の後半にさしかかったところに書かれていた直線の生き方と曲線の生き方も参考になった。直線の生き方とは、仕事の会議で言えば、議題があり、何時から何時までに、何を決めるかというもの。私は、会議があまり意味がないと思っていて、極力やらないに越したことはないと思っている。そんな私が、今年は自分の拠点で会議をしている。その会議は、曲線のような会議。答えを見つけないまま終了する会議。目的は考えを深める。この前、実施したんだけど、なかなか良かった。

 

 というわけで、私は、最近、人類学をもっと知りたいと思って、松村圭一郎『文化人類学(ブックガイドシリーズ基本の30冊)』という本を購入した。大学の授業で使用した教科書のようだと思った。授業ではなく、こうしてプライベートな時間に読んでいることが奇妙だった。今は、勉強を勉強と思っていない。ここは、じっくり読むと挫折してしまうような気がしたから、わからない箇所はわからないまま、読み進めていこうと思った。

 西欧中心主義への懐疑が、人類学の発端のような気がした。しかも、その懐疑を出したのが、同じ西欧出身者ということもまた興味深い。

 『社会で適切な働きかけができない人は、異常な特質をもっているのではなく、その社会への反応の仕方が文化制度に支持されなかったにすぎない』ルース・ベネディクト