どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

果てしなく不寛容で、完璧主義で、ミスも許さない社会になるほかないのだろうか

 職場の誕生会で、哲学的対話をすることになり、今月は「仕事とは?」という内容の話になった。今日、誕生会に参加した職員が、業務日誌で、私が話した「活かされている」、「偶然や運」と言っていた言葉が印象に残っていると、書いてくれて嬉しかった。

 今日は珍しく、半日勤務で、昼過ぎには自宅に帰ってきた。

 妻も仕事が休みで、近所の公園に桜を観に行こうと昨日、話をしていた。妻が通勤途中だったか、バスに乗車した時に、運転手から桜が綺麗な場所を教えてもらった、とのことだった。

 私たちが自宅を出発する時間は小雨が降っていて、雨だけど、車から花見をしよう、ということになり、妻がいう公園に向かった。小雨で、しかも桜は散っていて、花見どころではなかったけれど、立派なソメイヨシノがあり、これは満開だったら綺麗だろう、という公園だった。妻は、良い場所を教えてもらった、来年、観に来よう、と言っていた。帰りは、池田食品で、ナッツペーストシェイクを買って帰ってきた。

 自宅のソファでねっ転がりながら、岸政彦『にがにが日記』を開いた。

 

 ・・・なんでこんなにみんな、あらゆることでギスギスするようになっちゃたのか。こういう流れはもう止まらないのか。果てしなく不寛容に、完璧主義に、一切のミスも許さない社会になるほかないのだろうか。

 岸政彦『にがにが日記』p18

 

 先日、外国人の女の子が迷子になっているところに遭遇し、小学校に送った話を何人かにしたのだが、誘拐と間違えられるよだとか、警察に連絡した方が良かったのでは、ということを言っている人もいて、世知辛い世の中だと思った。妻も同じようなことを言っていて、警察に捕まったら、無実を証明しに迎えに来てくれと伝えた。その後も、そのことを考えていて、例えば、どこかショッピングモールで、迷子になって泣いている子どもに遭遇した場合は、どうか。店内にアナウンスを流してくれるところまで一緒に行くだろう。その間、それを観た人が、誘拐していると見えなくもないだろう。そしたら、やっぱり捕まるだろう。まあ、知らない人にはついて行かないように、と子どもの頃、言われたように、最悪のケースを考えると、ついて行かないほうが良いのか。そしたら、泣いている子どもをそのままにすることになるのではないか。

 職員とどんな地域に住みたいか、という話になって、私は、そんなことを考えたこともなかったから、職員が話す、住みたい街みたいな話が興味深かった。昭和のような地域が良い、という。その昭和のような街とは、近所の人から声がかけられる街だという。その話を聞きながら、私は、子どもの頃に近所の人に声をかけられた場面や子ども会のことを思い出したりしていた。今度、他の職員にも聞いてみよう、ということになった。

 晩御飯で、生姜焼きを食べながら、テレビをつけた。巨人対ヤクルトをやっていて、巨人の先発は、山崎伊織で、私が観るときは、よく山崎伊織が投げている、と思った。試合は、シーソゲーム。8回表ヤクルトが4-3で勝っている。高橋雄平がマウンドに上がった。