どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

会社にはわかってもらえない

 会社にはわかってもらえないと思ったほうよいよ、という言葉が周り回って私と管理者の耳に入り、お互い、自分のあの良かれと思ってかけた言葉だ、と思った。もちろん、その職員は傷ついているのだろうが、管理者も傷を負う。それは、管理者の仕事として、当然のことかもしれないが、管理者が、どれほど、職員のことを考え、想っているのかは、伝わりづらい。どの会社の上司も同じだと思わないが、少なくとも私の会社の管理者は、職員のことを大切にしようと思っているし、私も思っている。

 管理者だけではない。先輩、後輩との関係においても、起こり得る。後輩は、先輩に相談できない、という声を訊く。先輩は、先輩で、なぜ、後輩から相談が来ないだろうと悩んでいる。

 私は、考えても、わかならなくなり、時代のせいにしたくなる。

 そういえば、と、私は、以前、読んだ尹雄大『聞くこと、話すこと』を開き、携帯に当時、メしていたページを拾い読みしていった。 

 

 互いが「あなたを知りたい」という思い、だからこそ相手に何かを率直に尋ねるとき、そこに信頼が生まれるのではないか。尹雄大『聞くこと、話すこと』p26-27

 

 「あなたを知りたい」というあまりの素直さに触れたとき、身にまとった鎧を脱いでもいいのではないかと思い始める。私が私であることを許される、認められる。そこに「私自身であってもいいのだ」という安心を覚える。尹雄大『聞くこと、話すこと』p26-27

 

 言葉を知的に理解しようとする前に「完全に聞く」ことが重要だと思っている。・・・「『完全に聞く』とは『ただ聞く』だと思うのですが、おそらくは余計な聞き方をしないことが大事だと思うんです。ただ聞けていないときに排除されているものがどういう要素なのか。何が余計な聞き方を生じさえせているのかということになりますね」尹雄大『聞くこと、話すこと』p28

 

 たとえ表情や身振りを感覚で把握しているつもりでも、意識的に聞こうとして聞いている限りは「感覚的理解」という概念的な行為でしかない。食事を味わおうとして味わっていては、味がわからなくなるのと同じだ。それでは「感じている」というリアルタイムの出来事から遅れてしまっている。・・・だから口にした言葉に意味だけを見出そうとする限り、決して相手が話に託した思いや感覚に近づけないだろう。尹雄大『聞くこと、話すこと』p20

 

 ケアする人たちが認知症患者と接する際、彼らを人間として、尊厳ある存在として扱うときに、実はケアする人たちも初めて自らの尊厳を保つことができるわけだ。尹雄大『聞くこと、話すこと』p120

 

 「あなたは決して相手を変えようとしていない。ただその人がその人であることを認めている」私がそういうと、彼はこう返した。「変えるとか以前の状態に戻すではなく、今ここの瞬間のあなたに注目する。それが大事だ。尹雄大『聞くこと、話すこと』p125

 

 できないことで傷ついてきた人は、ある意味で「できないこと」にこだわる。身体の使い方とは、できないことをできるようにする訓練に励むように言っているのではない。できるとできないのあいだには、ただ行為がある。つまり、できるとかできないではなく、ただやればいい。身体を使うとは、ただ行うということだ。尹雄大『聞くこと、話すこと』p188

 

 私たちは苦痛に対する大きな誤解をしているのかもしれない。楽しいことは楽なわけではない。苦を通じてしか至れない楽しさもあるのだが、提供された娯楽や快楽に時間を費やすことを当たり前にした体感からは、苦しさは避けるべきものとしか見えない。それは自身の身体に起きている現象を拙い言葉に置き換えているだけで、身体の声を、訴えを聞いていないのではないか。尹雄大『聞くこと、話すこと』p188

 

 「いかに客観的になれるか」ではなく主観の徹底に手がかりがある。そのためには自分の主観を徹底して観なくてはならない。主観で観るのではなくして。・・・問題は、見たものが世界のすべてだと思い込んでしまうことだ。その錯覚に気づくには、カメラをどの位置と高さと角度で構えているからその景色が見えてくるのか、を知るかにかかっている。自分にとってあまりにも当たり前すぎることを改めて捉え直すのは難しい。だからこそ、自分の行っているジャッジのあり方を知らなくてはいけない。いわば撮った写真から「何をどのようにどこから撮っているか」の観点を探るわけだ。尹雄大『聞くこと、話すこと』p232

 

 やってしまったことを迂闊に反省しないことは結構重要ではないか。といっても反省が悪いのではなく、また反省しなければいいわけでもない。親しんでいる反省の仕方そのものが従来の自分を生き残らせる巧みな方法になっている場合も大いにあるということを言いたい。尹雄大『聞くこと、話すこと』p254

 

 当時、読みながら、私は、「伝えようと思う気持ちが強いと聞こえなくなることがある」とメモを書いていた。そのメモを読み直した時、この時に気づいていたのにな、と思う。

 ある職員が、「教えてもらいたいのではない。対話をしたいんです」と言った。

 私は、人の話を聞きながら、話をしたいスイッチが押されることがあり、聞きながら、次の話たいことが頭の中に浮かび、ついつい、話しすぎるという悪いところがある。その職員に言われて、まずは、相手の話を聞こうと、自分に言い聞かせる。

 最近、コミュニケーションについて考える機会が多く、何度となく、私が若かりし頃に抱いていた感情を思い出す作業を繰り返す。

 わかってもらえると思えるから、伝えようと思う。それは当然のことであり、それは時代のせいではない。もちろん、生きてきた時代があるし、世代による溝があるとしても、わかってもらえないと思えないのなら、話すること自体を諦めるだろう。

 では、わかってもらえると思うのは、どうすれば良いのだろう?私は、若かりし頃に、話したいと思った先輩の顔を思い浮かべる。その人は、自分の考えを発信してくれていた。その発信を聞きながら、この人なら、相談したいかも、と思った。で、相談というか、自分の考えを伝えた時に、最後まで聞いてくれた。聞いてくれただけではなく、そっと一言、添えてくれた。その一言に納得はできない時でも、ずっと、その一言は余韻として残っていて、ある時、その先輩が言ってくれた言葉は、こういうことだったのか、と理解できた。