どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

会話は難しい

 シャツのアイロンをかけながら、ここ何日かのことを思い出していた。こうして手を動かしながら考えることって大事だよな、とか思いながら。

 私が最初に就職した職場は、転勤のある職場だったから、転々としていたのだけど、よく思い出すのは、初めて赴任した職場のことだった。

 正義感や責任感や自尊心、そんな諸々の感情から、よく職場で喧嘩のようになっていて、一言で言えば、人間関係で悩んでいたのだけど、私は、コミュニケーションを取らずして、やり取りできないものかと思っていた。

 もう何十年も前のことだから、記憶は曖昧になっているけれど、私にとって、都合の悪い発言をしたことがあり、そんなことは言っていないと嘘を言ったことがある。一対一のコミュニケーションだから、言った、言わないの話にしようとした。あとで、別の職員から、嘘を言うなと戒められた。その場面をたまあに思い出して、私は、恥ずかしくなる。

 

 三木那由他『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニュピレーション〜』を読んだ。

 三木那由他さんは、本著の中で、コミュニケーションとは、話し手と聞き手の間で、約束事が形成されると述べている。

 言った責任、聞いた責任が伴うということは、働いていると感じる機会がある。私は、相手がやると言ったのに、なぜ、その仕事をやってくれないのだろう、あれ、話したこと忘れたのかな、と思いながらも言うのを止めることもある。約束をしたわけではないけれど、コミュニケーションが、そもそも約束事を形成することで成り立っているのであれば、約束を反故することになるわけだから、当然、信頼を失うことになる。

 

 フリッカーは、社会的マイノリティはそのマイノリティ性ゆえに、同じ条件のもとでは知識の主体としての能力をマジョリティに比べて疑われやすくなる傾向があるという議論を展開しています。

 三木那由他『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニュピレーション〜』p178

 

 コミュニケーションがすれ違った場合の擦り合わせは、当事者同士のあいだで済ませる場合にも、それでは済まず周囲の人間への訴えかけがなされる場合にも、どうしようもなく会話参加者同士の力関係や社会的位置に影響されることになります。力が弱いものは当事者同士の交渉で不利になるし、社会的マイノリティは周囲への訴えかけで不利になるでしょう。

 三木那由他『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニュピレーション〜』p183

 

 だとすると、意味の占有は周囲に高い地位のひとがいればいるほど、そして利用できる社会制度が多ければ多いほど実行しやすくなると言えそうです。貧しいひとよりも富めるひとが、部下よりも上司が、生徒よりも教師が、女性よりも男性が、社会的マイノリティよりも社会的マジョリティが、それをおこないやすい立場にあります。それゆえにそれは、差別ともストレートにつながっている現象です。・・・(中略)そうしたときに、その差別の訴えが意味の占有によって捻じ曲げられてしまっている可能性、そしてあなた自身が意味の占有者による働きかけの対象として利用されている可能性を意識するようにすることは、現代の社会において非常に重要なことだと思います。

 三木那由他『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニュピレーション〜』p184-185

 

 私は職場において、少数派だった時代があるから、上記の内容は、非常にわかる。意味の占有というものがあり、意識することが重要だということは、わかったが、読みながら、仮に、逆の場合もあるよな、とも思う。例えば、パワーハラスメントは、パワハラです、と訴えた方が有利になるような気がするし。どちらにせよ、コミュニケーションには、意味の占有だったり、コミュニケーションの暴力が起こりうるということを意識することは大事なことであることに変わりはないだろう。

 昨日の夜に、東京に住む元部下から5月末に退職することにした、とLINEが来ていたのを思い出した。上司や代表と会うのがストレスになり、打ち合わせが怖くなり、職場で笑えなくなってきたので、退職を決めたという内容だった。私は、体と心が、まずは大事だから、といつか、人生の先輩にかけてもらった言葉を、LINEで返信した。

 私の頭の中には、つい先日、疎外感を感じるという管理者のことや、いつしか仕事が辛いと言った人に、私がかけた言葉を思い出していた。前向きな言葉だけが、人を救うことにならないよな、と考えながら。