どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

難しいが口癖だった

 ハンドルを握り、信号待ちしている間、それにしても、今年は、仕事運がない、と思ってすぐに、今年は始まったばっかりか、今年じゃなくて、今年度、と思い直した。仕事運と「運」のせいにしてる時点で、、、と苦笑しながら右折した。

 対話ねえ。対話って何だっけ?対話の定義は?難しい。難しいと思ったこと自体、久々だった。そういえば、対話についてというか、コミュニケーションについて書かれていた本を読んだ。日記を書いている途中で、一旦、保存し、そのままにしていた。ちょうど良い。これを機会に書き直すことにした。

 

 傷つかないための対話をするのではない。むしろ逆である。互いが安全に傷つくためにこそ対話がある。人は傷つくことなしには生きられない。生きるとは傷を受け、そこから回復することの繰り返しにほかならない。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p70

 

 Xで、『風を通すレッスン』の抜粋をたまたま目にして購入した。安全に傷つく。安心して傷つく。安心して言いたいことが言える。心理的安全性という言葉を思い出した。組織運営に何か、役に立つかもしれない、と頁をめくった。頁をめくりながら、対話とは、いかなるものかを改めて考える必要があると思った。

 対話というか、人と人との関係におけるコミュニケーションについて、何度となく考えていくんだろうな。ここで殴るような言葉を投げかけると、安全に傷つくことじゃないよな。 

 

 会話は知り合い同士や、たまたま居合わせた人の間でなされるおしゃべりであると述べた。それに対して、価値観が違う者同士で交わされるのが対話だ。また、議論や討論とちがうのは、必ずしも結論を出したり、どちらが正しいかをはっきりさせることを目的としない点だ。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p65

 対話がよくて、会話や議論がよくないということではない。会話がふさわしい場もあるし、議論や討論が必要な場もある。でも、人と人との言葉のやり取りが、会話や議論だけになってしまうと、その中では伝えられない思いが行き場をなくしてしまう。

 対話ができる空間とは、自分が感じている違和感を安心して表明できる場のことである。共通点を確かめることによって安全を得るのではなく、違っていても安全であることを確認する場だ。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p65ー69

 

 違っていても安全であることを確認する場。安全であることを確認するのはどういうことだろう。それは否定されないということ。だけど、違いを表明することが、否定されていると感じることはないのだろうか。

 

オープンダイアローグには、こうしたらいいというマニュアルがあるわけではない。むしろ、マニュアル化したりせず、治療者と患者、専門家と素人というような上下の関係性をなくし、水平で対等な立場で対話をつづけようとするものだ。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p46

 

 治療者と患者、ケアする側とケアされる側にという関係性によって、対等な立場になりうるのだろうか?あらかじめ役割がある状態で出会い、そこに何らかの金銭関係が発生する出会いを対等と言えるのだろうか。対等になり得るかはわからないけれど、ここでいう患者やケアされる側が、人として大切にされている状態が大切なことは容易に想像でき、ただ、その大切にされている状態を感じないというのが、いろんなところで起こっている。それはなぜなのだろうか。

 

 人と人が話しあえば、緊張が生まれるのは自然なことだ。その緊張が各自の中でほぐれていくのをしんぼう強く待つ。結論を出すことを目的とするのでもなく、権威に従って物事を決めるのでもなく、客観的データにもとづいて判断を下すのでもなく、寄り合いの参加者ひとりひとりに納得感が生まれるまで、のんびり話し合いをつづける。テンションを高めて強引に解決するのではなく、ごはんを食べたり、疲れたら横になったり、眠くなったら寝たりしながら、けっして無理せず、世間話を交えて話をつづけているうちに、問題が問題ではなくなってきて、結果的に問題が解消されるという感じかもしれない。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p51

 

 これかもしれない。納得感か。ただ、納得感が生まれるには、お互いが、お互いの思っていることを表明しなければならない。

 そういえば、この前、会議に出ていて、先輩職員が断定的な口調だと、ラリーができないよね、と思ったことを思い出した。私も、そのようになっているのではないか。自信は、時として、断定的な口調になり、相手に有無を言わせないようにしてしまうのかもしれない。まずは、聞く、話そうとしている時に、じっと聞くことから。 

 

 オープンとは、なにもかも透明化して共有化することではない。かくしておきたいこと、口にできないこと、本人の中でまだ受け入れることができないことを陽の光の下にさらすのではなく、そうしたものを抱えているひとりひとりを、互いにまず受け入れる。弱みを握られているのと、弱みを受け入れられていることとは、根本的にちがう。まずお互いの弱さを受け入れることこそがオープンな対話の基盤になるのではないか。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p53

 

 他者とのコミュニケーションを阻む最大の障壁は、相手を「わかったもの」にしてしまうことだ。「わからない」相手に向き合うのには忍耐力や情熱がいる。そのため、私たちはしばしば、「この人はこういう人だ」と「わかったもの」として扱おうとする。

 ・・・人と人との関係では、どっちかが「わかった」といった瞬間にコミュニケーションは終わってしまう。「わかった」とは、こちらの物差しで相手の内心を推し量り、そのイメージを固定してしまうことだからだ。

 逆に、わからないもの、未知のものがあると思うと、コミュニケーションはつづいていく。自分には見えていない世界を相手は見ている。そう感じる時、人は謙虚になる。謙虚になるとは、相手が秘密にしておきたいこと、言いたくないことを、あえて聞き出さないことでもある。相手の心の中を、こちらが想像して、勝手に「こうだろう」と決めつけるのではなく、そのままにしておく。相手の内心を読まないのは、相手の尊厳を守ることにもつながる。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p57−58

 

 難しい。言いたくないことを、あえて聞き出さないこと。そうしてきたけど、そうしてきたけど、言いたくないことは言わなけきゃいいじゃんって思ってきたけど、それが後で爆発するなら、言ってくれよって思っちゃう。