どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

橋本亮二『手紙を書くよ』を読みながら

 コメダで、アイスコーヒーを飲みながら、橋本亮二『手紙を書くよ』を読んでいたら、この文章を綴りたくなったので、綴ることにしました。『手紙を書くよ』は、往復書簡のような形で進み、読んでいたら、私も、手紙を書くように綴っていきたい気分になったので、そうすることにします。

 『手紙を書くよ』のブックカバーは往来堂書店のもので、モグラなのか、ネズミが描かれています。往来堂書店で、『手紙を書くよ』を手にし、「手紙」という2文字に惹かれ購入したもので、と書いているところで、手書きの手紙を書いたことがない人って、結構、いるのではないだろうかと思いました。良いですよ。手紙。良いですよね。手書き。

 私には、二人ばかり、定期的に手紙を書く人がいます。といっても、私が筆無精で、ここ何年間かは書いていません。なので、相手も、書いてくれません。そういえば、小学校の頃、転校した友達との手紙のやりとりも、私の筆無精のせいで、途絶えたような気もします。

 『手紙を書くよ』に、こんな一節があります。

 父が亡くなって少し経った頃でした。お手洗いにいこうと思ってベッドを抜け出し、ふすまを開けた時、母が電気もつけず父の遺影の前に座っていたのです。どうしていいか分からず、「なんしとるん。」としか言えませんでした。橋本亮二『手紙を書くよ』p25

 読みながら、同じようような、そうでもないような場面を思い出しました。

 妹に娘が生まれた頃、妹は、夫と娘と三人で、実家に帰省していました。私は、姪に会いに通いました。そんなある日、居間の隣の部屋を覗くと、妹の夫と妹の娘は、布団で眠っていて、妹は、ただ、黙って、その2人の姿を見ていました。その情景に、言葉を失いました。

 手紙は、相手が書いてくれたことに対する回答のような形で書くこともあるので、私が書くこの文章も、手紙のように内容が飛びますが、お許しください。

 十七時退勤社は新刊を文学フリマで初売りすると決めているのですが、あの場に行くと、ほんとうにたくさんの人たちが自分で書いて、本を作って、ブースで手売りしていることに感動します。有名な人も多く出店していますが、大半は名も無き、私のような市井の人です。それでも、どんなに小さいものでも、本として閉じられたら思いもよらない地に、時間を経ても届き、誰かに手にされることがある。その確信を胸に、この活動をしているのだといま思いました。橋本亮二『手紙を書くよ』p35

 私も、本を作りたいと思っています。ずっと思っています。本を作って、文学フリマに参加したいとも思っています。『手紙を書くよ』を読みながら、思いもよらない出会いが待っていたらと思うとワクワクしました。

 先月、初めて文学フリマに行って来ました。出店者側として参加する前に、買う側で、参加したいと思って。このブログの読者がいるかは分かりませんが、文学フリマに参加しているときに、ブログ、読んでます、と声をかけるのを想像するだけで、嬉しくなります。

 アイスコーヒーもなくなり、コメダにかれこれ2時間近くいるような気もするので、今日は、このへんにしておきます。

 追伸を初めて覚えたのはいつだったのでしょうか。多分、友達との手紙のやり取りをしていて、友達が使ったのが始まりなのは確実で、もしかしたら、追伸ではなく、「P.S」が始まりだったのかもしれません。今更ですが、「P.S」とは、何の略なのでしょうか。わかるかたがいらっしゃったら、教えてください。