北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

つながりは、いま救われているのか?

 生活の批評誌を読みながら、生活について考える日々を過ごしている。生活とは、生きている毎日のこと。であるならば、生活をテーマとして何かを書くということは、あらゆる事柄が含まれるのではないだろうか。では、暮らすは?生活と同じような言葉だけど、生活すると暮らす、2つの言葉があれば、そこは微妙に意味が変わるのではないか。暮らすは、住まいと関係するもののような感じがする。では、人生は?英語のlifeは生活とも人生とも訳される。生活は、短い期間で、生活が積み重なったものが、人生か。そんなことを考えながら、生活の批評誌第2号を開いた。つながりは、いま救われているのか?という特集で、この特集を知って、この生活の批評誌を俄然、読みたくなった。

 だが、あたかも明るい未来を約束してくれそうなつながりは、本当に私たちを救ってくれているのだろうか。生活の批評誌第2号p14

 私も、つながりに疑問を持ったことがある。誰かに押しつけられるつながりであれば、それは居心地の悪いものになる可能性があり、居心地が悪いものであればつながりを必要としない。それが、しがらみになるのだろうか。だが、一方、つながりが必要だと思っていて、そのつながりに強弱がついていたり、一元的な価値観を押しつけられないものであって欲しいと思っている。

 「君が得た知識はどこで得たのか?習ったか?それを自分で確かめたのか?」と言われたんです。私が自分の意見だと思っているものが、初めてまともに反論あった。で、考えてみると、あれ?大人の受け入りやったかも。自分の頭で考えてなかったな意外と、と思ったんです。・・・自分の集めた情報が自分の中で統合されていって、言葉になった時の自由になる感覚が楽しくて、この感覚をもっと多くの人が感じれたらいいなって思いました。自分が考えている物事を逆サイドから見てみるとか、前提とする物を疑ってみるみたいな経験は非常に重要で、教育でやりたいなと思った。生活の批評誌第2号p36-37

 生活の批評誌を読みながら、私も自分で本を作ってみたいな、と思った。この10年くらいの日記を加筆修正したら、どれくらいの量になるのだろうか。10年単位で、本にしていけたらな、と思った。本にして、ネットで売ったり、店に置いてもらえたら嬉しいだろうなとか想像しているだけで、ワクワクしてきた。先日、札幌で文学フリマを開催されているのをTwitterで知ったり、こうして、生活の批評しとして、自分たちで発信している人たちに触れているからだろうか。

 チームの仲間から、ここのところえげつない業務量だと連絡がきた。何の業務がえげつないことになっているのかをまずは訊くことから始めよう。