どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

ルールがあるから自由になれる

 皮膚科で、柿内正午『プルーストを読む生活』を読み、歯科で、柿内正午『プルーストを読む生活』を読む。

 プルーストを毎日読み、毎日、日記を書くというルールで始めたらしい。そのルールを読んで、私も、『プルーストを読む生活』を毎日読み、毎日、日記を書きたい気持ちがわいたので、こうして、久々の2日連続投稿をしている。多分、明日は仕事で、帰ってきたら、日記を書く気力もなく、その記録は途絶えるのだろう。

 で、『プルーストを読む生活』の中に、ルールがあるから自由になれるというようなことが書いてあって、そうなんだよなあ、と仕事のことが頭に浮かぶ。

 私は、自分で考えたルールを毎年、年度初めの4月にチーム内で共有している。もともと、極力、怒りたくないから、これだけはしないでね、と内容をまとめて伝えておこうと始めた。今年は、全部で5つあり、基本、その5つを守れば、他のミスが起こっても、怒るまいと言い聞かせている、が、どうだろう?怒りは、瞬間的なものだから。そんなルールを強いているのは、我がチームのみなので、他のチームからみると、あそこのチーム、厳しいよね、と見えているのかもしれない。が、あら、不思議。部下達は、案外、のびのびとやっている。これが、ある程度、制限を加えられたほうが、自由になれるということなのではないだろうか。自分のやりたいようにやって良いからと言われると、案外、何をやってよいかわからなくなる。 

 自己責任だの生産性だの本当に悲しくなるこの悲しさに抗うための、まちがえずにちゃんと怒るべきものに怒るための、自分なりの軸足が欲しいと思っていて、けれども悲しいばかりでよくわからなくて、それがようやく言葉になったと思った。

 その行為が、物言いが、人間を人間扱いしているかどうか。

 これを軸に対峙していけば、自分として、大きくまちがった態度を取らずに済む気がした。

 制度とか技術とか経済とか、そういったものって何のためにあるんだっけ。

 それは、人間がなるべく人間らしく暮らしていけるように、作って行くものなんじゃないっけ。柿内正午『プルーストを読む生活』p80-81 

 その行為が、物言いが、人間を人間扱いしているかどうか。ああ、私の仕事にも当てはまるな、と仕事のことが想起される。もしかしたら、読書をしていて、かなりの頻度で、仕事のことが想起されているかもしれない。ただ、案外、嫌ではない。休みの日も仕事のことを考えているけれど、クリエイティブな思考の仕事のことを考える行為は嫌ではない。あれをやらなければならない。あれをし忘れていたとかだと、嫌な気持ちになるけれど、読書から仕事のことを想起されるのは、嫌ではない。嫌ではないから、携帯にメモを残しておいたりする。

 人間を人間扱いしているかどうか。私の周りの何人かは、あまり長生きをしたくないと言う。それは、悲しい発言だな、と思って、それから、じゃあ、どうなれば、そう思わなくなるのだろう、と考えていたのだけど、この言葉かもしれないと思った。人間扱いされているかどうか。簡単なようで、簡単ではないから、いまだ、実現していなく、長生きしたくないと思ってしまうのだろう。

 ・・・お金をもらうときは「上から目線」、・・・いい場所やいいものを作っているのだから、胸を張って偉そうにしていて欲しいし、僕はそこに喜んでお金を払いたい。・・・えらいのは、お金をもらう側であって、払う側ではないのだ。もらう側があげる側におもねるような状況を作ること、払う側が受け取る側に対して横柄に振るまうこと。それはとても下品だと僕は思う。柿内正午『プルーストを読む生活』p 93-95  

 先日、コンビニで、ポイントカードを店員に向けてほうり投げている50代くらいの男性がいて、待たされている時間が長かったのだろうか。この人、かっこ悪いなあ、と思った、という出来事を思い出した。レジの店員の態度が悪くて、怒っている人を見たときは、まあ、怒って当然だけど、そこまで怒らなくてもと思ったが、そういう場合は、どう振舞えば良いのか。君、態度、悪いね、と一言いうのは、めんどくさいから、そこは、さっさと退散するのが賢いのだろう。

 このようにプルーストは、あまり出てこない。だけど、このプルースト以外がおもしろい。阿久津隆『読書の日記』もこんな感じで、こんな感じの厚さの本だった。

 そういえば、文學界10月号に、プルーストを読む生活の特集が組まれていて、それが、自分だったら、と考えると、嬉しくてたまらないことではないか、と思ったというか、羨ましいと思った。

プルーストを読む生活

プルーストを読む生活

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