どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

光と影

 辞令交付式は15時からだったので、コメダに寄り、宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』の続きを読んだ。あっという間に読み終わった。読み終わってしまったという表現のほうが近い。成瀬が、フィクション上の人物だとは思えない。成瀬の幸せを願わずにはいられない。成瀬、最高。

 辞令交付式、懇親会、2次会に参加して、帰宅し、シャワーを浴び、0時を跨いでいたか定かではないが、あっという間に眠くなって寝た。

 カーテン越しから漏れる光で目が覚めて、高校野球を観るために、テレビをつけ、番組表を表示し、今日が、決勝の日だと気づいた。早坂大輔『いつも本ばかり読んでいるわけではないけれど。』の続きを読んだ。

 

 生きること、生活することを「芸術」だなんて考えたこともなかったが、彼の家に行く前に読んでいた宮沢賢治の『農民芸術概論』の一節をふと思い出して、おそらく賢治はこういうことを言いたかったのではないかと、彼の暮らしぶりを眺めながら思った。土を耕し作物を生み出すことも、何もないところからギターを爪弾き音楽を作るのも、彼に取っては同じ芸術なのであって、その毎日の集積、流れている時間、過去と未来、生活が組み合わさって四次元となり、一つの巨きな芸術になる。

 早坂大輔『いつも本ばかり読んでいるわけではないけれど。』p47

 

 宮沢賢治『農民芸術概論』を読んでみたい、と思って、読書メーターに登録しようと思って、アプリを開いたら、宮沢賢治全集が目にはいって、全集でも良いかも、と思った。奥山淳志『動物たちの家』も読んでみたい。水木しげる河童の三平』も。光と影のエッセイの最後に書かれていた文章も良かった。

 

 犬が眠っている窓の外では立派なトマトの葉が茂っている。午後になると少し日が陰り、うっすらとベランダに影ができ、大きな葉が陰影を作る。その傍で老犬は深く深く眠る。私たちはいつまでも光の側でばかり生き続けることはできないのだ、という大きな矛盾のなかで生きている。光ばかりだとわれわれは困憊してしまうからだ。やがて光を影が覆い、その光と影が生命の循環なのだとわたしたちはいつか理解し、前に進む。ぼくはいずれ老犬を大きな影が覆ってしまうことを知っている。だがいっぽうで、どうしてもその事実を認められない自分がいる。永遠などありはしないのに。

 早坂大輔『いつも本ばかり読んでいるわけではないけれど。』p51

 

 センバツ高校野球決勝は、健大高崎報徳学園だった。気づいたら、寝ていて、起きたら、9回表、報徳学園の攻撃だった。1点差を追う二死から盗塁を決めた。WBCで鳥谷が盗塁したのと同じだった。勝ちたい、という気持ちが、その盗塁からも、試合が終わった後も、画面上から伝わってきた。夏の報徳学園に注目したい。