どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

場所や店舗にとって必要な要素とは?

 部屋の窓を開け、阿久津隆『読書の日記 In Design/入籍/山口くん』を開いた。

 

  「なにがいけなかったかな?」とか思う自分を見かけて戒める、そういうことを考えちゃいけない、購読してくださる方におもねるとか配慮するようなそういう姿勢を持ってはいけない、そんなふうになるんだったらやらない方がいい、フヅクエにおいてフヅクエを律する統べるのはただフヅクエだけであるのと同じように日記において日記を律する統べるのはただ日記だけであって、どちらも僕は従うまでだった、余計ないことを考えてはいけない、阿久津隆『読書の日記 In Design/入籍/山口くん』p528

 

 メルマガの登録者が、購読停止した時の阿久津さんが自問自答した言葉だった。ちょうど、最近、表現とは、どうあるべきかというようなことを再び考えていて、この問いは、もう何年、何十年と考えてきたテーマだった。表現とは、自己満足ではいけないのではないか、自慰行為ではいけないのではないか、それを観るひと、読むひとを意識したものではならないのではないか、というものなのだが、最近は、観るひと、読むひとを意識する必要はないのではないかというもので、どう感じるか、どう評価されるかは、観るひと、読むひとに委ねるだけであって、スタートは、やはり自分自身の納得のいくようにというか、自分自身のためにあるのが、芸術であり、文学であるのではないだろうかということだった。阿久津さんの自問自答の箇所を読んで、そのことを思い出した。

 読書の日記に、たびたび登場するひきちゃんというひとは、どんな人なのだろう。阿久津さんのフィルターを通して知るひきちゃんは、魅力的なひとだった。

 

 ずいぶんと眠いと思いながら起床しりんご食べる。それで出る。ひきちゃんは今日は今年初めてでだから深々と頭を下げて挨拶をする。煮物をつくったり幾つかやるべきことをやりながら、コーヒーを二人分淹れて、飲み、話す、ABCが本の出版を始めるんだってねということであるとか、それからメルマガの事務局仕事みたいなことにどうだろう在宅でできるお仕事で小遣い稼ぎは、という打診をしたりする、・・・ひきちゃんは「あ、やりたいです」と軽いものだった、・・・。阿久津隆『読書の日記 In Design/入籍/山口くん』p532-533

 

 たびたび、レースカーテンが揺れた。読書の日記に、祈りという言葉が出てきて、また祈りという言葉と出会ったと思った。

 

 読書は祈りの行為で本のわずかな時間のそれが1時間のそれに劣るわけではなくこうやってパッと開いて、ほんのわずかな時間、本とともにある、それがどれだけ人を救うことか、ということをよくよく知らせる本だと、そう思いながら何度か同じ行為を繰り返す。読んでいると、そうだった、料理も祈りだった、となっていった、美味しくあれというそれは正しく祈りだった、それはまたつまり祈りだった。読書も料理も祈りで、僕がどん底みたいなところに落ち込まないでいられるのは日々を構成する行為がこういったものだからなのかもしれないとそう思った。阿久津隆『読書の日記 In Design/入籍/山口くん』p546

 

 先日、読んだ荻田泰永『書店と冒険』にも祈りという記述があった。私の仕事においても大切な考え方かもしれないと思った。

 

 「機能と祈り」という言葉が、私にとって物事を考えるときの、一つのキーワードとなっている。これは、元々は哲学者の内山節さんが本の中で書いていた言葉だった。確かこのような具合に書いていたはずだ。例えば、子供にお父さんってどんな存在かと聞いた時に、その子が「お父さんは働いてお金を持ってきてくれる人」と答えたとする。この時、子供はお父さんの機能を語っている。一方で、同じ質問をした時に「お父さんと日曜日に野球をするのが大好き」と答えたとき、これは祈りの話をしている、というものだ。ここから私の解釈を入れていくが、機能で語られる部分というのは、他の人でも入れ替えが効くもの、代替可能な領域だ。お金を持ってきてくれるのがお父さんだとすると、より給料が高いお父さんの方が良いお父さんということになる。より高機能のお父さんだ。このお父さんは、代替可能なお父さんである。しかし、祈りで語られる部分というのは、入れ替えできない領域の話となる。その子が日曜日に野球をしたいのは、他ならぬお父さんである。給料が安くても、そのお父さんが良い。年棒も高い、より高機能なプロ野球選手を連れてきてもダメなのだ。荻田泰永『書店と冒険』p13-14

 

 祈りという言葉をもっとわかりやすい言葉に言い換えることができないのか。想い?願い?ん〜。上記からすると、機能よりも祈りが必要だという話だが、読んでいくと、機能と祈りのバランスが必要とのことで、機能と祈りとは、ありがたさと煩わしさと言い換えることができるとのことだった。

 『読書の日記』も終盤にさしかかってきた。阿久津さんが、オペラシティアートギャラリーで開催されていた「石川直樹この星の光の地図を写す」を見たという記述があり、おお、と思った。なぜなら、私も、オペラシティアートギャラリーで「石川直樹この星の光の地図を写す」を観に行き、その後、初めて、フヅクエに訪れたのだった。『読書の日記』を読みながら、私が、フヅクエに訪れた日の日記を読むのを楽しみにしていたが、残りの頁数からいくと、その日は、この『読書の日記』にはおそらく収録されていない。