どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

消えたい

 一日のルーティンのように、条件反射かのように、コメダに来ているな、とコメダのドアノブに手をかけた。

 持参した鞄からiPadを出して電源を入れ、書きかけの日記の続きを書き、鞄から、太田靖久『ののの』を開いた。読んでいると、店内に流れる女性が歌う歌がよくて、なんて歌なんだろう、と聴いていると、忌野清志郎『デイ・ドリーム・ビリーバー』を女性ボーカルが、英語で歌っているものだった。

 

 誰かを雇えば良いのかもしれなかったが、人を使うということが嫌いだった。「人を使う」という言葉も嫌いだったし、それらを言い換えただけの柔らかな表現、「手伝って貰う」とか「パートナーとして頑張ってもらう」などもやっぱり苦手だった。

太田靖久『ののの』p78

 

  会議中に、女性が、なんで人を一枚、二枚と呼ぶの?と語気を強めに言い、一枚、二枚と言った職員は、じゃあ、なんて呼べば良い?と聞き返し、一人、二人でいいでしょ、と言い返した場面を思い出しながら読んだ。

 私は、そんなに気にならなかったが、どんな言葉を選ぶかは重要だと私も思っていて、その表現の仕方、何か気になるな、ということは日常でたまあにある。たまあにあるが、私は、めんどくさいのもあってか、指摘することはなかった。 

 『ののの』を読み進めると、死にたいではなく、消えたいという言葉があり、私は、いつかも聞いた消えたいという言葉を考えていた。死にたいという言葉を使うのではなく、なぜ消えたいという言葉を使うのだろう。存在を消したいということなのか、であるならば、存在を消したいということはどういうことなのか、そんなことをつらつらと考えた。

 

ののの

ののの

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