どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

部下に意図が伝わらない

 何でそんな話になったのか、思い出そうとしても思い出せないのだが、自然な流れで、職場の同僚が玄関先で、私に、声をかけてきた、というか、声をかけてくれた。なぜか、その同僚から相談のような話をしてくれるのが嬉しかったので、声をかけてくれたという表現の方がしっくりくる。 

 その同僚は、部下に私の意図が伝わらない。部下が納得せず、思うように物事が進まないと言うことだった。 

 上司のキャラにもよるので、一概に、このやり方が良いと言うやり方というものはなく、その同僚は、部下が納得できるような形で物事を進めるのが合っているような気がしたので、粘り強く、それこそ、まだ、同じことを言っているのか、それなら、一度、やってみようと部下が根負けするくらいに対話を繰り返すのが良いのではないか、と思った。同僚自身がそう思って、そうする、と言って帰っていった。また、今度、どうだったか、声をかけよう、と、事務所に上がると、私と話をすることを忘れて帰ったと思いました、と、今度は、私の部下であり、管理者の女性と話をすることになった。

 管理者になって1年目の女性で、私は、等身大でしか勝負ができない、ということを言っていて、私が、管理者になりたての頃は、背伸びをし、失敗したという経験があるので、等身大でいられること自体が勇気あることなのではないかと思って、そう伝えた。

 私は、覚えが悪くて時間が全然足りないというようなことも言っていた。何日か前に、サッカーの本田圭佑がインタビューを受けている動画を目にし、本田は、初めから質を高めることなんてできない、まずは量、量をこなして初めて質が伴ってくると言っていて、私もそう思うと思ったが、今、その女性に伝えても、伝わるような気がしないので、私の心の中に留めておこう。卒なくテキパキと物事をこなす人よりも、不器用な人の方が信頼をおける人が多いという印象があるとも思っている。

 次の日も、その部下とのやりとりを何とはなしに思い出し、ここ近年の私の仕事観を思い出した。ここ近年は、仕事ができる、できないという基準は、よろしくないと思っていて、活躍しなくても良いじゃない、と思っている。ただ、そう思えるのは、他者からの一定の評価を感じられるからそう思えるのかもしれないとも思っている。他者からの評価のみだと、生きづらさが生じてしまう、ものさしは、他者だけではなく、自分自身のものさしでもはかる必要がある。

 私が魅力を感じる人というのは、自分自身の価値基準を持っている人で、自分自身の価値基準を持っている人って、どのようにそうなったのだろう、と興味がある。

 自分自身の価値基準を持っていると私が感じる人と話をしていると、子どもの頃、ポセイドンという映画が印象的で、という話をしていた。自分自身で考えず、人の指示のみに従った人が溺れて、自分自身の感覚を信じた人が助かった、という内容だと言っていた。

 話は脱線するが、私は、子どもの頃に、芥川龍之介蜘蛛の糸』のアニメをみた時の影響で、今も、自宅で虫を発見しても殺さなくなった。