どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

年賀状

 仕事帰りにハンドルを握りながら、どのような理由でふられたのだろう、と、昔、つきあっていた彼女にふられた理由を思い出そうとしていた。中学生時代の同級生からLINEが来たのがきっかけだった。思い出せなかったが、ふられたことは確かだった。なぜなら、つきあった彼女に、私から別れを告げたことは、これまでなかったから。自分で言わないで、彼女に別れの言葉を言わせたんでしょ、と言われたことがある。その言葉は女性なのは確かなのだが、誰に言われたのかは覚えていない。言葉だけを時々、思い出す。いや、やはり、言わせているということはないのではないだろうか。

 毎年、毎年、年賀状を出してくれるのは、なぜだろう、と思考は、元旦に届いた年賀状へと飛ぶ。私が、社会人になり、初めてパートナーとして働いた相手で、その女性は、当時、40代だった。その女性は、バリバリと仕事ができる人だった。一緒に働いていた時は、そんなに仲良くさせてもらっていた記憶はなかったので、私が転勤してから、気にかけてもらえるようになったのだろうか。そういえば、自宅に泊めてもらったことすらある。

 もう何年も、年賀状を自分から出すのはやめた。書かないといけないと思いながら、年末を過ごすことが嫌になったから。それでも、毎年、送ってくれる人がいて、その2人には年賀状を出そうと思っているのだが、めんどくさくなって、まだ出していない。いや、書こう。日記を書く手を止めて、年賀状を書いた。あとは、出すだけ。

 年末に同僚と食事をした時に、薦められた下田昌克伊藤比呂美『今日』を開いた。子育てをしている母に贈る詩集だった。

 その同僚とは、年に数回、食事をしながら、仕事のこと、本のこと、NHKのことなんかを話しするのだが、今年は札幌駅付近で会うことにした。私がネットで予約したのだが、店に行くと、予約されていません、と言われ、そんなはずはない、と携帯でメールを確認すると、予約できませんでした、というメールが届いていた。札幌駅付近だから、どこかは空いているでしょ、と探して歩き、あっという間に見つかった。

 同僚は、楽しそうに仕事の話をしていた。最近、よく考えていることだった。大谷翔平が、インタビューで、僕は、常に楽しいですよ、と言っていた場面を思い出すことがある。大谷は、言い聞かせているのだろうか。言い聞かせている時もあるけれど、本当に、楽しんでいる時もあるような気がする。仕事は、自分が楽しむためにないとは思うけれど、楽しむことが大切だと思うこともある。