どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

すべてはモテるためである

 コメダで、席を立つタイミングで、隣に座るおじいさんに、なんとはなしに目が行くと、読んでいる新聞が目に入った。スポーツ新聞のエロい記事の箇所を、食い入るように読んでいるのか、読みながら寝ているようだった。

 私は、持参したiPadを開き、携帯電話で、先日、読み終わった二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を開いた。

 10代から20代にかけて、モテたい、と思っていたが、モテたためしはない。なぜ、あそこまでモテたいと思っていたのだろうか。もはや、モテる必要もなくなった、今、なぜ、『すべてはモテるためである』を読んだかというと、伊野尾書店で購入した山下素童『彼女が僕としたセックスは動画の中と完全に同じだった』が、おもしろくて、その本に登場したのが、二村ヒトシさんで、二村ヒトシさんの本を検索した結果、『すべてはモテるためである』を読むのが良いだろうと手に取った。本のタイトルからして、自宅の本棚に並べるのは忍びなく、電子書籍で購入した。

 ざっくりいうと、モテないのは、ギラついているか、臆病かということで、過去を振り返りながら考えると、ギラつきすぎず、臆病にならないのって難しいよな、と思うのだが、モテている奴というのは、その絶妙なバランスが保たれていたのだろう。

 最近、何人かの女性に、『すべてはモテるためである』の感想を話しているのだが、仕事柄、全ての人にモテる必要がなければ、モテても困るよね。誰にモテるかが重要だよね、と言われ、すぐに納得できなかったが、時間をおくと、確かに告白された人数、経験した人数を自慢したところで、肝心なのは、この人と付き合いたいという人と付き合えることが一番である。

 『すべてはモテるためである』には、熱中できるものを見つけろというようなことが書かれており、そういえば、私は野球熱に侵されていたのだが、野球部のマネージャーの何人かから告白されたことがあったと思い出し、ああいうことか、と思った。モテたいという邪念がないとモテるということか。

 数十年ぶりに、思春期に出会った友人3人と再会し、思い出話に花が咲き、モテたいと思っていた、当時の自分を思い出す。

 高校の卒業式の日に、私は、第二ボタンをもらいに来ようとしている女の子がまだいるかもしれないから、もう少し、教室にいようと友人の一人に言い、しばらくしても、誰ももらいにくる女の子はいなく、ほぼ全ての同級生が帰ったところで、トイレに行ってくるわ、と私は一人、トイレに行き、教室に戻ってくると、その友人のところに、一人の女の子がいて、それは、私が望んでいた第二ボタンを渡しているところだった。

 その後、私たちは、ご飯を食べてから帰ろうと学校を後にしたのだが、友人曰く、私は不機嫌だったと言っていた。

 その友人は、女子と積極的に話すような男ではない。つまりはギラついていない。ただ、臆病というにのも当てはならない。女子からは、クールだよね、という表現を使われていて、そういえば、当時の私は、クールを目指せば良いのかと思っていたが、クールだね、と言われたことは一度もなく、『すべてはモテるためである』を読んだ今、ただ、愛想が悪いか、臆病だっただけなのかと思わなくもない。

 すすきのの街を歩きながら、都会を歩くだけで楽しいと、一人が言った。

 次の日、一人から、「ほんと面白かったわ〜、泣くほど笑って、明日から頑張れそう」とLINEにメッセージが来たので、「2人が楽しみで眠れないと言っていたのが、嬉しかったわ」と返した。