どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

人間扱いしているかどうか

 その行為が、その物言いが、人間を人間扱いしているかどうか。この一節を、柿内正午『プルーストを読む生活』で読んでから、何度も何度も頭の中に浮かんでくる。こういうとき、今の私に必要なキーワードのような気がして、その感覚を大切にしている。で、時には、あたかも自分の言葉のように周りに話し、なんかしっくりこないなあ、とか恥ずかしさを感じつつ、考えを深める作業をしていく。

 長生きしたくない。その言葉を何度か耳にしてきた。なぜか、その言葉は女性ばかりから訊いた。性別が関係するかどうかはわからないが、なぜだろう、とその言葉を聞いてから、ふとした時に思い出して考えている。長生きする。長生きすると、できないことが増える。できないことが増えると人に頼らなければならなくなる。その過程で、もしかしたら、自分は人間扱いをされないのではないか、と不安がある。例え、自分の家族だとしても。また、自分のことで、自分の家族に迷惑をかけていることも苦痛。私の祖母は、迷惑をかけたくないが口癖だった。迷惑をかけてもいいじゃないか、と思っていたけど、その迷惑の度合いによるのかもしれない。自分のせいで家族がイライラしていたり、悲しんでいたりしたら、切ない。そうなると、福祉サービスを使うのがベスト。ただ、福祉サービスが、使いたいレベルにあるかどうか。サービス業で、トップレベルだな、と思う業種に、航空会社とホテルが思いつく。あのレベルに達していれば、長生きしたいと思えるのだろうか。どんな研修をしているのだろう。訊いてみたい。

 で、昨日、私は、日本の生産年齢人口が減少することについて考えていた。生産年齢人口が減少する、この日本に何が必要か。まずは定年制を撤廃すべきだと思う。なぜ、政治家は80代で現役なのに、会社員には定年があるのだろうと思う。退職したい人はすれば良いし、働きたい人は、そのまま働けば良いし、そのままの勤務ではなく、例えば、週3回勤務とか選べられるようになれば良いと思う。定年の延長を繰り返さないで、一気に廃止しますで良いのではないかと思っちゃう。定年がなければ何が困るのかを考えると、人件費が圧迫するのと、いつまでも管理者の座に君臨されるのも、ちょっとということが、頭の中に浮かんでくる。が、そんなに難しくないような問題のような気もする。難しいから、進まないのか。

 次に考えたのが、働きたいのに、働けていない人が働ける環境を作るということ。例えば、障害者であったり、ひきこもりだった人であったり。そこで、私は、大切なことを忘れていたということに気づく。生産性があるかどうか、役に立つかどうかで、人を判断する価値観を変えなければならないこと。役に立たなくて良いじゃないかという社会。たこ八郎さんが言っていた迷惑かけてありがとうとか、大竹伸朗さんが言っていた、こいつ、いなきゃよかったのに、仕方ねえな、と言いながら笑っている社会を作るにはどうしたら良いか。認知症になっても、障害がどんなに重くても、安心できる社会。その人たちが、活き活きしている、大切にされているというのが、周りに伝わることが必要。どうしたら、活き活きするのかを考えると、役割があるということなのか、という一つの答えにたどり着く。役割も結局、役にたつかどうかという視点になっているのか。定年制を撤廃した方が良いと思ったのは、この役割があるからこそ、健康寿命も伸びるのではないかと思ったから。では仕事の代わりに社会参加として、ボランティア活動みたいな考え方があるけど、そこに別な生きがいを感じる人もいるので、選択肢としてあるのはいいけど、考え方としては、これまで培った経験が活きる形が自然だし、入りやすいのではないだろうか。

 あと、最近、考えているのが、自分で選べるかということが、重要だということ。何か一つの答えを押し付けられないこと。私は、将来、デイサービスとかには行かないで、日向ぼっこをしながら、読書をする生活を送って余生を過ごせればと思っていて、それは、人に気を使うのが嫌だなというのと、そもそもデイサービスに行っても楽しそうではないというのがある。どうなんだろう。自分からデイサービスに行きたいと行っている人はいるのだろうか。家族の希望で行っている方が多いのだろうか。そうなると、というか、人と関わらないでいると、役割がないということになるのか。全ての人に役割があるというのが必要というわけではないだろう。 

 僕は思想家のイヴァン・イリイチがすごく好きで、彼が晩年に言っていたのが、「人びとに『未来』などない。あるのは『希望』だけだ」。この言葉を当てはめると、未来に囚われ続けてしまうと自分すら投機対象になってしまうってことなんです。

 未来に向けて自分を開発して値段を上げていくと、それはいわゆる「財」になっちゃうわけですよね。でも人はそもそも財ではないわけだから。

 きのう引き合いに出したクラシコムジャーナルの若林恵の対談を読み返したら、冒頭に引用した部分にはっとした。これまでさらっと読み溢していた部分だった。

 これは、僕の感じる「人財」というワードへの気持ち悪さを解きほぐすためのとっかかりになりそうな言葉だ。柿内正午『プルーストを読む生活』p114−115

 昔、研修で、人財について聞いたことを思い出した。その時の記憶でいけば、会社の財産だから、人財なんですというようなことを言っていて、そんなに気持ち悪さを感じていなかった。柿内正午『プルーストを読む生活』を読みながら、そこに疑問を持つ人がいるんだなあ、ということと、うまく言語化できないけれど、その当たり前のことに疑問を持つということは、大切なことで、ここに何か大切なことがあるような気がして、だけど、言語化できないから、もう少し、考えてみたいと思う。

 

プルーストを読む生活

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