どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

デイキャンプ

 夏、真っ盛りという感じ。

 デイキャンプでもするかと思い立ち、ホームセンターで、クーラーボックスと焚き付けと木炭を購入し、スーパーで焼き鳥を買って、自宅から30分ほどのキャンプ場を目指して車を走らせた。

 初めて行くキャンプ場で、池といえば良いのか、沼といえば良いのかがあって、気温は32度だったのに、木陰は、風が吹き、割と過ごしやすい場所があったので、私は車から焚き火台と木炭と焼き鳥を入れたクーラーボックスなんかを降ろした。

 枝を広い、ホームセンターで買った焚き付けは使わずに、自宅から持って来た、いらなくなった広告に火をつけ、拾った枝を、はきぱきと折って、焚き火台に入れいった。

 思いのほか拾った枝は火のつきが悪くて、煙ばかりが出て、火というより煙を見ていたら、片づけるのがめんどくさいかも、と思ってしまい、焼き鳥を焼かず、昼寝をすることにした。

 昼寝をしようと目を瞑ってまもなく、足や腕が、こそばゆくて、どうせ蟻かなんだろうかと思って、見てみたら、やっぱり蟻で、払っても、払っても、こそばゆいから昼寝なんかできなくて、何しに来たのだろうと思いながら、自宅に帰った。

 自宅に帰って、昼寝した。

メロン

 不在連絡票を手に郵便局に行った。実家からメロンが届いた。毎年のように、実家からメロンが送られてくる。もう何年になるのだろう。20代の頃は、メロンを切るのもめんどくさくて、実家から送られて来たメロンを、お世話になった人にあげていた。自分は食べずに。

 メロンの箱を抱え、車に向かっている時に、ふと、親戚のおじさん、おばさんのことを思い出した。久しぶりに会いたいな、と。私が、会いたいと言ったら喜んでくれるろうか。私が、姪っ子に会いたいと言われたら、嬉しいだろうな。そんなことを考えていたら、親戚のおばさんの家に泊まりに行った時のことを思い出した。小学生の夏休みだった。親戚のおばさんに連れられ、デパートに行った。初めてのデパート。欲しいものを買ってあげるから持って来なさいと言われ、私は迷わず、その頃、はまっていた学研ひみつシリーズの漢字のひみつをもっていった。図書館で何度となく借りて読んでた本が、常に手元にある喜び。何度となく、あの時は嬉しかったな、とふとした時にこうして思い出している。たぶん、おばさんは、買ったことも覚えていない。

応援したくなる理由

 昼寝から目が覚めると、15時で、病院に行く予定だったけれど、めんどくさくなって、また眠りについた。30分後に、再び、目が覚めて、病院が何時までやっているかを調べると、18時だった。18時なら行けそうと思った。そういえば、いとこからの小包も郵便局に取りに行かなければならなかった。

 いとこから小包が届くことは初めてで、何を送ってくれたのだろう、と不在連絡票を手に、郵便局に行った。郵便局の職員が手にしていた小包の品名を遠目に見ると、本と書かれていた。何の本だろう?と、住所欄を見たら、いとこが住む住所ではなく、そもそも、いとこでもなかった。先日、注文したツチヤタカユキさんの本だった。いとこの名前は、タカユキではなく、タカアキだった。

 車の中で小包を開いた。メッセージが書かれている黄色い図書館のチラシが入っていた。『笑いのカイブツ』を読んでいる者にとっては、嬉しい演出で、ツチヤさんが近くに感じた。メッセージの最後には、ずっと作品を待っていてくれていたあなたの存在が僕の光です、と書かれていた。みんなに書いている言葉なのかもしれないけれど、嬉しかった。ブログを書く前にもう一度、読み直すと、これは、みんなに書いている言葉ではないのかもしれないと感じた。感じたというか、仮に、私への個人的メッセージだったら、すごいことだなと思った。こうしてネットで、言葉を綴るということはそういうことだと思う。

 その中の一冊の本を持って病院に入った。読みながら待っていると、診察室から、泣き叫ぶ子どもの声が聞こえた。病院は病院でも、耳鼻咽頭科って、子どもにとっては、いやだよな、と思った。本に集中できなくなるほど、子どもは泣き続けた。私がその子どもだったら、帰るだろう。現に、私は帰りたくなった。

 診察を終え、自宅に帰って来て、ニュースを観ていたら、大谷翔平が、オールスターで、指名打者として選ばれたということだった。大谷が生まれ育った町の女性がインタビューに応じており、息子のように嬉しいと歯に噛んでいたが、私も嬉しい。大谷の活躍に目が離せない。今日の大谷はホームランを打ったのだろうか、と気になる。

 もちろん、これまでみたことのないような選手であるということはあるのだろうけれど、それだけではない何かが、大谷を応援したくなるのだろう。大谷が高校時代に書いたマンダラチャートに、人間性を磨くというようなことが書かれていたような記憶がある。となると、人間性か。応援したくなる人とは、どのような人なのかを考える。応援したくなる人は、たぶん、応援してもらおうと思っていないような気がする。いや、応援してもらいたいと思っている人もいるか。ただ、褒めて欲しいと伝わってくる人は、どうも褒めたくなくなる。それと同じで、応援してもらいたいと伝わることもどうなのだろうか。なぜ、応援したくなるのかを深く掘り下げていこうかな。

カンダバヤシ語録

 鬱病なのか、鬱気味なのか、職場の後輩から、体調の調整ができないので、一度、話を訊いて欲しいというLINEが来て、私が話を訊くより、坂口恭平『躁鬱大学』を読む方が助けになると思い、今すぐにでも、読めるようにと、noteのURLを添付して、今、この本を読んでいる、とLINEを送った。

 最近、その後輩を見かけないなあ、と思ったら、仕事を休んでいて、周りの者に、結構、長いこと休んでいますよ、と聞き、ということは、あのLINEの直後から休んでいたのかもしれないと思って、直接、話を訊かなかった罪悪感を感じた。

 で、昨日である。その後輩が晴れやかな表情で、私のところに、ご迷惑をおかけしましたと挨拶に来た。『躁鬱大学』は読んだ?と訊いた。はい。カンダバヤシ語録もコンビニで印刷して読みました。近くのコンビニで印刷すると、新興宗教の人みたいで恥ずかしかったので、隣町まで行き、印刷しました、と言っていた。後輩が印刷しているところを想像して、確かにと、笑った。

 坂口恭平さんも躁鬱病で悩み、最近は、躁鬱病ともうまくつきあえていること、いのっちの電話をしていること、私もよく本を読ので、まずは、坂口恭平さんをもっと調べたら良いよ、と伝えた。

 

 

自費出版

 ブログのコメント欄に投稿いただいた方からツチヤタカユキさんがInstagramをしていますと教えていただき、Instagramを開いた。ツチヤタカユキと検索し、何人かのツチヤタカユキさんから、これかなと思う人を開くと、そこにURLが掲載されていたのでクリックした。

 ツチヤタカユキさんのbaseのページだった。aboutをクリックすると、自主制作した、小説と詩集を販売しています、と書いてあり、20万円以上の、赤字で、やっていますので、決して金儲けではありません。(ちなみにたくさん貯金がある中からの20万円ではなく、貯蓄残高、残り20万円になってから、それを全部ぶっ込みました。もはや、ただのパンクロッカーです)と書いてあり、パンクロッカーという表現が良いな、と思うと同時に、ツチヤタカユキさんらしいとも思った。完売したら新作を3作品作れるので、ぜひ、応援よろしくお願いします、と書いてあった。応援したいという気持ちももちろんあるが、完売したら、もう手に入らないかもしれない、とも思って、販売している全ての商品を購入することにした。

 

soil.base.shop

 

 そんなツチヤタカユキさんのことを知るにつけ、私もむくむくとやる気が出てきたというか、何かしたい気持ちがわいてきて、自費出版してbaseで売るのおもしろそうだな、と思った。しかし、ブログの読者もそんなにおらず、自費出版をしたところで、大量の在庫を抱えることになるのは必至。何百冊、印刷したら、プラスになるのだろう?そこを調べないとと思ったが、まずは、ブログの読者を増やすほうが先だな、と思った。が、これまで何十年とブログを書いてきて、今後も読者が増える感じはしないし、増やすのが第一の目的でもないような気がするし、とりあえず、ブログの更新頻度を上げようと思った。

 ツチヤタカユキさんから、やる気をもらったからか、そこからスポーツ選手が、夢と希望を与えたいと言っている、あの言葉に違和感を感じるんだよなあ、と頭の中に浮かんだ。東日本大震災の時も、テレビでそう言っている人をよく見かけ、違和感を感じた。何か力になりたいという気持ちから、夢と希望を与えたいという言葉になったのだろうことは想像つくのだけど、ただ、与えるという表現がなあ、と思う。

 

 それはさておき。ひさしぶりに舞城王太郎を読みたくなり、舞城王太郎を好きになるきっかけとなった『阿修羅ガール』を読むことにした。何年前に読んだかを調べたら9年前だった。どんな物語かもほとんど覚えておらず、言い回しというか、書き方が独特というか、特徴的だったことだけは覚えている。 

 

探し物

 北の大地には爽やかな風が吹いている。夜になると肌寒いくらいで、カーディガンのような長袖が必要だ。そういえば、春に購入した黒のカーディガンが見当たらないことに気づいた。行きそうな場所を隈なく探し、それでも見つけることができず、職場の人々に尋ねた。最近、黒のカーディガンを見かけなかったか、と。

 数日前、このカーディガンは誰のだろうと話してました、と職場の後輩が言った。やはり、困った時は、人に尋ねてみるものだ、と私は歓喜した。私の必死さが、おもしろかったのか、後輩は笑いを堪えきれないというか、もはや笑っていたので、笑いごとではない、と一喝した。

 後輩が、このカーディガンですか?とLINEに送られて来た写真は、私のものではなかった。というか、もはやカーディガンでもなかった。せっかく買ったのに、と落胆し、自宅に帰った。

 

 ブログにコメントが届いた。ツチヤタカユキ『笑いのカイブツ』の続刊が今秋に発売されます、という内容だった。ブログにコメントが届くのは嬉しい。『笑いのカイブツ』の続刊がでるのも嬉しい。丁重にコメントを返し、amazonで、ツチヤタカユキと検索した。既に発刊されていて読んでいない本があることに驚いた。『笑いのカイブツ』を読んだあと、ツチヤさんは生きているのだろうか?と心配になるほどだったから、次の本はないものだと勝手に思い込んでいたのだ。検索した中にあった『Birthday cake』を読み始めた。短編小説のようだ。ブログを書きたいと思ったが、眠くなったので、眠った。

 

 6時に起き、洗濯をすることにした。洗濯カゴの奥のほうから、私が探していた黒のカーディガンが出て来た(私の洗濯の仕方は、洗濯カゴにたまったら上の方から洗濯をするため、洗濯機に入りきらなかった下のほうは洗濯されず、また上に新たな洗濯物が積まれるため、下のほうにある洗濯物は、当分の間、洗濯されないということがある)。職場の後輩から、え?洗濯カゴですか?と冷笑されているのが過ったが、それよりもカーディガンが見つかったことが嬉しく、良い1日の始まりだと思った。洗濯の間、ツチヤタカユキ『Birthday cake』を読んだ。

短気

 短気はかっこ悪いな、と思った。私のことだけれども。会議が終わり、頭が冷却するとともに、自動的に、どう振る舞うべきだったかを振り返る。

 冷静になってみると、私を試すかのように、煽っているような言動でもあった。そもそも、そんなやりとりは、そうそうなく、やりとりするたびに、私は、腹を立てた。これが、わざとだとしたら、まんまと罠にはまったことになる。老獪この上ない。

 オンラインによる会議だから、自分の顔が見える。マスクをしていると、表情がわからなから苛立っているのもわからないかも、と思った。が、たぶん、声音でわかる。勉強不足ですみません、と言えた自分を褒めたい、と思った。心にも思っていないけれど。

 最近、YouTubeを見ながら、この人のやりとりは、かっこいいな、という人がいて、コメントだったかに、色気があるという表現をしている人もいた。男性なんだけど、色気がある。女性の色気があるとは同義なのだろうか。それはさておき、色気があるである。かっこいいと近いところにある言葉であるような気がする。その人は、謙虚だった。ユーモアがあった。少しだけゆっくりとした話し方だった。その話し方は、余裕があるように映った。ということで、私は、ゆっくりと話すのを心がけようと思っていたところだった。