買い物にコンビニに行くと、少し早いバレンタインデーのためにチョコレートが並ぶ。
もうそんな時期かと、コンビニに陳列されたチョコレートを見ながら季節を味わう。
いつのことだったか、初めてもらったバレンタインデーのチョコレートケーキ。
それは、それは宝物のようだった。
何回も何回も、そりゃあ宝物のように、そのチョコレートケーキを眺めていた。
すると、「私達にも食べさせて」とあまりにも酷い言葉を浴びせる鬼のような家族。
2月3日に節分はすませたはずだぞ、家族よ。
俺は「ダメだ」と即答した。
すると「けちくさい」ということになった。
俺は今も昔も「けちくさい」という言葉が嫌いだ。
屈辱。
何かちっぽけな人間かのような言葉、「けちくさい」。
だから、俺は「けちるところじゃない」という言葉を好んで使う。
それはさておき。
今も昔も、このバレンタインデーにもらうチョコレートに関しての俺なりの美学みたいなものがある。
それは、「義理であろうがなかろうが、もらったチョコは全て俺が食う。例え松井秀喜のようなニキビがでようが、何ヶ月かかろうが、もらったチョコは全て俺が食う」。
4番センター松井になるくらいのチョコレートをもらったことは、残念ながら未だかつてない。
ようは、チョコレートをこんな俺に対してくれたことの礼儀が、「全て食う」という行為で応えるということ。
まあ、もてない男の美学かもしれん。
その一個が貴重でたまらん、そんなもてない男の美学かもしれん。