どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

人類学

 たまたま目にしたPOPEYE『SUMMER READING2020』を読んでいた。そこに紹介されている一冊の本が目に止まった。

 ”差異に溢れた人間たちがともに生きるための人類学”と、紹介されていたその本の名は、松村圭一郎『はみだしの人類学ともに生きる方法』だった。これまで人類学について学ぶ機会はなかったけれど、仕事のヒントがある気がして、購入してみた。

「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。

 他者とのつながりによって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』p77-78

  仕事をしていると、まずは自己を知れ、という話を聞く。だけど、最近、その考え方に疑問を持っている。なぜなら、自分の強みや弱みって、そもそもどんな他者といるかによるのではないか?Aという集団の中では、周りよりもできるから強みだったものが、Bという集団の中では、周りよりもできなければ弱みに転じる。

 個性も、出そうと思って出すものではないと思っている。滲み出てくるもの。出そうと思っても、出てくるものではないのだろうか。

 たとえば、「イスラムの文化を学び、尊重しましょう」と考えること自体が間違っていると思う人はあまりいないと思います。それでも、そこには日本文化とイスラム文化を切り離された存在として見ようとする姿勢があります。これではすでに引かれた境界線を前提にその差異を再確認して、境界線自体を強化してしまっている。

 どうすれば、その差異を乗り越え、境界を揺るがすことができるのか。それこそが異文化理解の目指すべき姿勢なのに、乗り越えがたい差異があると考えるところからはじめている。・・・。

 「わたしたち」と「かれら」の境界線は、ひとつの固定したものではありません。むしろ複数の線の引き方があります。イスラムを信仰している人のなかには男性もいれば、女性もいます。だとしたら、「日本人」と「イスラム教徒」という線の引き方だけが唯一の方法ではありません。松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』p81-82

  これって、日本人とイスラム教徒の話だけど、同じ日本人でも、障害のある人とない人との関係でも同じことだな、と思ったわけ。つまり、人類学の思考方法は、社会福祉学でも参考にできるところはある。

 異なる複数の境界線を引くことが既存の境界を乗り越えるために必要な想像力になります。だから「異文化理解」を考えたいのなら、ほんとうに「異文化」なのかどうか、どんな意味で「異文化」とされてきたのか、そこで引かれている境界線とそれに沿って見いだされている差異そのものを疑うところから始めないといけない。

 複数の境界線を引いてみると、どの境界線によって浮かび上がる「差異」も、けっして絶対的なものではなくなります。国や宗教の違い以外にも、私たちはさまざまなに異なっている。そう考えると、日本と外国を最初から「異文化」だとみなす考え方が、いかに狭い見方かがわかるでしょう。松村圭一郎『はみだしの人類学 ともに生きる方法』p83

 たとえば、SFのように、地球外生命体が地球に攻め込まれたら、地球は一つになる気がする。それって、結局、境界線が狭いか、広いかの話で、結局は、同じことなのではないだろうか。日本の戦国時代は、日本の中で戦争していた。それが、日本対外国で戦争をするようになる。それが、地球対地球外生命体になる。そう考えると、人類は、境界線を引いてしまう生き物なのか。

 本の後半にさしかかったところに書かれていた直線の生き方と曲線の生き方も参考になった。直線の生き方とは、仕事の会議で言えば、議題があり、何時から何時までに、何を決めるかというもの。私は、会議があまり意味がないと思っていて、極力やらないに越したことはないと思っている。そんな私が、今年は自分の拠点で会議をしている。その会議は、曲線のような会議。答えを見つけないまま終了する会議。目的は考えを深める。この前、実施したんだけど、なかなか良かった。

 

 というわけで、私は、最近、人類学をもっと知りたいと思って、松村圭一郎『文化人類学(ブックガイドシリーズ基本の30冊)』という本を購入した。大学の授業で使用した教科書のようだと思った。授業ではなく、こうしてプライベートな時間に読んでいることが奇妙だった。今は、勉強を勉強と思っていない。ここは、じっくり読むと挫折してしまうような気がしたから、わからない箇所はわからないまま、読み進めていこうと思った。

 西欧中心主義への懐疑が、人類学の発端のような気がした。しかも、その懐疑を出したのが、同じ西欧出身者ということもまた興味深い。

 『社会で適切な働きかけができない人は、異常な特質をもっているのではなく、その社会への反応の仕方が文化制度に支持されなかったにすぎない』ルース・ベネディクト