北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

暇と退屈の倫理学

車を買うため、ディーラーに向かうことにした。携帯電話の地図で住所を調べようとした時、営業時間外と知る。私の次の休みも営業していない。ますます、ディーラーに行くのがめんどくさくなる。

 

夜は、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を開く。

 

ある社会的な不正をただそうと人が立ち上がるのは、その社会をよりよいものに、より豊かなものにするためだ。ならば、社会が実際にそうなったのなら、人は喜ばねばならないはずだ。なのに、ラッセルによればそうではないのだ。人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になるというのだ。國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p15

 

子どもの頃、祖母に、「昔と今はどっちが良い?」と訊いたことがある。祖母は、「今かねえ」と応えた。嬉しかった気がする。その頃、世の中は、どんどん良い方向に向かうものだと思っていた。トライアンドエラー。失敗は成功のもと。子どもから大人となった今、どうも、世界は、良い方向ばかりに向いているとは限らないことはわかった。長い目で見ると、やっぱり、世界は、良い方向に向かっている気もする。コロナの影響で祖母がいる老人ホームには行けない。祖母の自宅でゆっくりとできるようになるのはいつのことなのだろうか。

 

なぜ暇は搾取されるのだろうか?それは人が退屈することを嫌うからである。人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのかわからない。このままでは暇のなかで退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか?なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p23

 

昔、早期退職した伯父に、「働いていた頃と今はどっちが良い?」と訊いた。当然、今の方が良いと思った。仕事もせずに、自由にやりたいことをやっている今の方が良いだろう、と思った。伯父は迷って「どっちも、どっちだなあ」と応えた。どちらにも良い面と悪い面があるということか。以外だった。

 

休みは何日あっても良いと思う。それは仕事をしているから、そう思うのだろうか。仕事を辞めれば、暇を持て余すのだろうか。

 

話はそれるが、伯父と叔父は、父方か母方の違いだとばかり思っていた。今、ネットで調べたら、父方、母方は関係なく、父の兄だと伯父で弟だと叔父。母の兄だと伯父で、弟だと叔父。なぜに、そんな区別が必要だったのだろう。分けて便利だったから、分けたのだろうか。ネットで調べると、儒教による影響らしい。兄弟間の上下関係をはっきりさせるためとのこと。なるほど。

 

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

  • 作者:國分 功一郎
  • 発売日: 2011/10/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)