北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

できそこないの世界でおれたちは

居眠り運転をしたことがある。

 

深夜1時。衝撃と共に目が覚めて、火花のようなものが目に飛び込んできた時には、畑に車が突っ込むところだった。

 

車の前方が土にめり込んで、止まった車の座席の中で、事態を把握した。

 

「守っていただき、ありがとうございました」そう祈らずにはいられない、落ちるなら、ここしかないという場所に突っ込んでいた。

 

まずもって人や車にぶつからなくて何より良かったし、数メートル先は、交差点で、交差点に隣接して公民館があって、その公民館にぶつかることもなく、等間隔に並ぶ電柱と電柱との間の畑に落ち、車は、タイヤがあらぬ方向に曲がってはいたけれど、私の体には傷一つついていない、一言で言えば、無傷だったのである。

 

これこそ不幸中の幸であり、ついている、とはこのことだと思った。

 

後日、友達に話したら、笑いながら、なんてポジティブなんだ、と言われたが、今もその場面を思い出すと、冷や汗が流れる。実際には流れていないけど。

 

前置きは、これくらいにして、今日、読み終わった小説の中にも、「天にまします神よ」と、主人公であるシロウという四捨五入したら50歳の男が、神様に問いかける場面が、ポイント、ポイントで出てくる。そして、最後は、「アレルヤ」という言葉で締め括られる。

 

アレルヤってどういう意味なのだろう?とブログを書いている手を止めて、アレルヤの意味を検索した。

 

ユダヤ教の用語で「主をほめたたえよ」を意味し、旧約聖書の「詩篇」の初めと結びにしばしばあらわれる、とある。

 

アレルヤという本の続編なんだろうか、と自宅の本棚に並んでいるアレルヤを開き、ペラペラとめくると、登場人物が同じだった。続編だ。

アレルヤ (双葉文庫)

アレルヤ (双葉文庫)

 

だけど、この本を読んだのは、数十年前で、内容もまったく覚えていない。だから、この後、再読しようと思っている。

 

続編だということがわからなくても、なんら問題ない。

 

四捨五入して50歳の青春小説。

 

四捨五入して40歳である私でも、しみるわあという言葉がちらばっていて、大切な1冊となった。

 

来週の月曜日、この本を紹介してくれた陶芸のおばちゃんのところに行って、「読みましたよ、おもしろかったです」、と感想を述べながら、コーヒーを飲んでこようと思っている。

 

できそこないの世界でおれたちは

できそこないの世界でおれたちは