どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

三月十日

 小川哲『君が手にするはずだった黄金について』は短編集だった。どうも、主人公は、同じ人物。著者である小川哲が主人公。プロローグという短編を読み終わり、なぜ、タイトルがプロローグなのだろう、と考えてみたが、わからない。

 次に収録されているのが、「三月十日」という短編で、東日本大震災のあった三月十一日に何をしていたかは覚えているが、その前日、三月十日に何をしていたかは覚えていない。三月十日に、していたことを友人たちと思い出そうとする話で、私も、一緒に思い出したが、当然、思い出せない。

 「三月十日」に、「嫌な思い出というのは、簡単に忘れられるものではない」という一文があり、思い出したのは、15歳の誕生日の日のことだった。

 学校が終わり、彼女と下校していたのだが、いつもと雰囲気が違い、何か嫌なことが起こる気がした。この場合の嫌なことなんて、一つしかない。ふられるということ。何か言葉を交わしていたのか、無言だったのか、記憶にないが、確か、いつもと違う帰り道で、ここまでで良いと、彼女が言い、申し訳なさそうな顔で、私に、誕生日プレゼントを渡し、あなたのことも好きだけど、あなたの友達のことも好きになってしまった。だから、別れて欲しい、と告げられた。私は、どんな言葉を返したのかは忘れた。どうせ、未練を口にしたのだろう。あれから、時々、なぜ、誕生日に別れを告げたのだろう、と思い出すが、その理由はわからない。

 次の「小説家の鏡」という短編は、友人の妻が、占いにハマって、仕事を辞めて、小説家になると言っているを、小説家である主人公に、止めて欲しいという相談を受けたところから物語は始まる。

 読みながら、占い師でも、その人のことがわからないのなら、例えば、私が、部下たちのことを見よう、見よう、としても、やっぱり見えない部分はあるし、わからないよな、と思う。ただ、見えないのは仕方がないと、見ようとしない、わかろうとしないのはよくないのはわかる。わかるけど、全部が全部見えないし、見せようとしないもうも悪いのではないのか。

 あっという間に小川哲『君が手にするはずだった黄金について』を読み終わった。別の作品も読んでみたい。直木賞を受賞した『地図と拳』でも読んでみようかな。