北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

あの頃、住んでいたアパートの一室で、その後、どんな人が、どんな物語を紡いだのだろう

滝口悠生『高架線』を読み終わった。春の陽気のような読後感だった。こんな読後感は初めてのことだった。ドラマティックでもなく、いや、登場人物の一人、峠茶太郎の人生はドラマティックだったかもしれないが、かたばみ荘の一室に住んできた人々の何気ない日常と、その住人と交流があった人々の物語。

 

高架線

高架線

 

 

読み終わった後、大学時代、初めて一人暮らしをした部屋が105号室だったな、と思い出したり、大学を卒業して、就職も決まらず、1ヶ月、友達の家に居候したのちに、社会人を初めたアパートは、104号室だったな、と思い出し、あの大学時代に、105号室に遊びに来ていた友達は、今は、2人とも東京に住んでいて、私は北海道で、あの頃の私たちは、今のこの生活をまったく予想もできなかったなとか当たり前のようなことを考えながら、最近、思うのは、こんな淡々とした毎日がしあわせということなのだろうな、と思っていたら、猫がかまってって、鳴いて、キーボードを打つ手を止めて、撫でた。そう。こんな些細なことにしあわせがあったりする。

 

あの頃、私が住んでいたアパートには、その後、どんな人が、どんな物語を紡いでいったのだろう。

 

そういえば、この前、テレビで見た、樹木希林が言った言葉が、木霊のように、私の心の中に響いた。

 

「内田は、人の悪口を一回も言ったことがありません。男は、そうじゃなくっちゃ」

 

私も、人の悪口を言わないようにしよう、と思った。男だから、女だからというのは、あれだけど、人の悪口を言わないというのは、かっこいいし。そういえば、松井秀喜も、人の悪口を言ったことがないって言ってたっけ。

 

今の自分ができているのも、他人から訊いた言葉だったり、出会った人だったり、自分の心の琴線に触れたもの集まりでできているのかもしれなないな、と思った。

201号室、傍らの些事

禁煙外来の予約はキャンセルすることにした。まったく煙草を吸わなくなって4日目。今もたまあに吸いたくなるけれど、ミンティアを齧って我慢している。

 

ヘリコプターの音が、窓の外から聞こえてきて、春を感じた。毛布を体にかけて、だらだら、ごろごろしながら、滝口悠生『高架線』を読む。時々、猫を撫でながら。

 

高架線

高架線

 

 

『高架線』を読んでいると、カレーうどんを食べる場面が出てきて、昼食は、カレーうどんを食べることにした。茹でたうどんの上に、カレーをかけ、千切ったレタスをのせて、マヨネーズをかけた。読んでくれている人は、えっ?レタス?と思うかもしれないから、少し説明を加えれば、私が20代の頃、働いていた会社の職員食堂に、カレーライスがあり、そのカレーライスの皿の上に、カレーライスと一緒にキャベツの千切りがのっていて、初めて見た時は、えっ?分けないの?と思ったんだけど、キャベツの千切りにマヨネーズをかけて、キャベツの千切りと一緒にカレーライスを食べたら、以外に美味しくて、たまあに、カレーライスとキャベツの千切りを一緒に食べている。といっても、カレーうどんの上に、キャベツではなく、レタスをのせて食べるのは初めてで、キャベツと同じ感じになるのかな、と思っていたけれど、予想以上においしくなかった。今後は、そんな食べ方をしない。

 

髭をそり、歯ブラシをしていると、外出するのがわかったのか、猫が「行かないで」と言わんばかりに、小さな声で鳴くもんだから、今日、外出やめよっかなと思いながら、後ろ髪ひかれながら、札幌に向かった。

 

いつもの立体駐車場に車を停めて、向かった先は、北海道文化財団アートスペース。葛西由香展『201号室、傍らの些事』を観に。

 

会場に着くと、個展を観に来た男性と話している女性がいて、すぐに葛西由香さんだ、とわかった。葛西由香さんの作品展は、ここのところ毎回、観に行っているけど、本人を見たのは初めてのことだった。

 

作品を一通り見て、葛西さんに、「ファンです。応援しています」と、声をかけ、猫が待ってるから早めに自宅に帰ってきた。

 

 

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三食作れば鬱が治る

映画「リトル・フォレスト」が好きで、あんな生活を送りたいと思って、家庭菜園を始めたが、あまりにも草取りがめんどくさくて、昨年の畑は、何の食物を植えることもなく、雑草が生い茂った。それはもう生き生きと。

 

最近、ふと、料理ができるようになりたいな、と、ふと思い、そういえば、小さい頃、料理を作るのが好きだったな、とか思い出しながら、まずは、以前から読みたかった坂口恭平「cook」を読むことから始めようと思って、注文し、今日、読み終わった。

 

確かに、その名の通り、この本は料理本なんだけど、料理を作るための料理本ではなく、いや、本を見ながら、そうめん食べたいなとか思ったので、料理本の側面ももちろんあるのかもしれないけれど、ちまたに売っている料理本と違うのは、料理を通して、鬱に効果があるという実体験でもあり、私は、どちらかというと、料理と料理の間に出てくるそんな料理を作った感想を興味深く読んだわけである。

 

本の最後の方には、料理と鬱に対する坂口恭平の考えが書かれていた。

 

そこに、

思考だけ動いて、いいことが起きるはずはない。人間はもともと狩猟採集の民だったわけで、頭というよりも足で考えるようにできている。そんな生き物が頭だけであれこれ考えても、悪いほうへ進むとしか考えられない。坂口恭平「cook」p114

ということが書かれていて、最近、職場の部下から、ネガティブが止まらない時にどうしたら良いかというような質問を受け、いろいろ方策を考えていたんだけど、その一つが、「動きながら考えろ」ということだった。

 

坂口恭平は、料理をすることは生きることと言っていて、確かに、やっぱり料理を作ってみようと思いながら、読みながら、だけど、作り方がわからないな、とか考えながら、そうだ、今はインターネットがあるじゃないか、と思って、とりあえず、「cook」に載っていたそうめんが食べたいから、近々、作ってみようかな、と思っている。

 

あと、この本を読みながら、魚を3枚に捌いてみたいな、と生まれて初めて思った。

 

cook

cook

 

 

「当たり前」のことが「当たり前」にできる世の中になれば良いなと願いながら

「あの演劇すごいです」と職場の同僚に聞いたのが11月。

 

職場の同僚がすごいと言っていたのが、新篠津高養護学校演劇部「よだかの夢」。全道高等学校演劇発表大会で優秀賞を受賞している。

 

卒業公演が岩見沢市民会館で行われると知り、この日を楽しみにしていた。会場には、40分前というのに並んでいる人たちもいて、こんなに注目されているのかという人々が会場を埋め尽くしていった。周りの人の声を聞くと、一度、観て、再度、観に来た人もいるようだった。

 

卒業公演のチラシには、こう書かれている。

 

『自分のことを知るほど、夢を見られなくなるなんて・・・』

「私は結婚なんかしない。私みたいな可哀想なこどもが生まれたらやだもん」2年前に耳にした部員の言葉が、棘のように顧問の心を突き刺した。多くの人が抱く夢や、味わう幸せに対する絶望。「当たり前」を「当たり前」に受け取ることができない哀しみがあることを突きつけられた出来事であった。「地元の友人には特別支援学校に入学していることを秘密にしている」という生徒もいる現実。まだ10代の生徒が経験せざるを得なかった哀しみや諦めを知り、部活動顧問として多くの人にどのように伝えていくか考え続けた2年間。部員とのミーティングを重ね、この夏やっと一つの作品として昇華した。

 

受験に失敗をし、行きたくなかった高校に通うことになった男の子と、知的障害があることに劣等感を感じている女の子が、偶然出会い、交流を繰り返す物語で、脚本は、部活動顧問が書き下ろしたもの。

 

久々に、ガツンと来た作品との出会いで、障害があるのに、頑張っているから感動したとか、そんな単純なものではなく、障害があるとかないとか関係なく、観終わったあとは、すごいな、と心の中で繰り返し呆然としながら、ステージに向かって拍手をしていた。

 

会場に入る前にもらったアンケート用紙にも、「すごかった。時間をかけて頭の中を整理します」というような内容を書いて帰って来た。

 

帰りの車の中で、熱した頭は徐々にクールダウンすると共に、いろんな言葉が頭の中に浮かんだ。

 

そんな気持ちを抱いている10代がいたことを想像できなかった。

 

想像せよ。私は、若い職員にそう呟く。想像しても、気づいていない気持ちに遭遇すると、まだまだだと思う。幸せ、排除、不公平、しょっちゅうではないけれど、いろんなことを考える。この仕事は哲学的かもしれないなとか考えながらハンドルを握る。

 

福祉の仕事をやっていて良かった。

 

「当たり前」のことを「当たり前」にできる世の中になれば良いなって思いながら、この仕事をしていたのかもしれない、と、ふと、まるで、天からの呟きのように思うに至った。大げさに言えば、自分の核は、これだったのかと気づいたような感覚。

 

実際に、こうして、「当たり前」が「当たり前」になっていない現実を再認識し、その現実に向き合う仕事って、やりがいがあるな、と。まだまだ、やるべきことはあるのではないか、と。

 

自宅に帰ってきてから、インターネットで新篠津高養護学校演劇部を調べると、顧問の先生は、私と同い年だった。あの脚本はすばらしかった。

 

観た人に、価値観を押しつけるのではなく、気づきを与え、問いを投げかける。最後に、二人は短冊になんて書いたのだろうと、想像させる、劇の合間というか、間合いというかが、少しだけ、観ている者に考える時間を与える。

 

職場の同僚と同じく、私は、会う人、会う人に、「あの演劇は観たほうが良いです」と熱を入れて話している。

その会社の採用基準は、人生に絶望しているかどうか

本は、どこか人との出会いに似ていると言われ、私もそう思うけど、直接、会うより本の方が優れていると思うのは、この人、苦手だなと思う人でも、本なら、人ではなく言葉に集中することができるから、結果、苦手な人の意見でも、ちゃんと聞くことができるような気がする。

 

そんな本を最近、読み終わり、何か、むくむくといろんなイメージがわき、先日、坂口恭平『cook』を買い、続いて、井上理津子『すごい古書店、変な図書館』を買った。まだ2冊とも届いていなくて、届くまでの間、又井健太『アムステルダム・ヘブン』を読むことにして、先ほど、読み終わった。

アムステルダム・ヘブン

アムステルダム・ヘブン

 

その会社の採用基準は、人生に絶望している人。そんな人たちが、働きやすい会社にするというのが、会社の理念。アイディアといい、時々、起こる大変なことといい、読んで良かった作品なんだけど、日本が嫌いだけで終わってるのが残念だったな、でも、日本を変えるってなると、途方もない話になるもんなあ、そういえば、この前、友達も日本が嫌いって言ってたな、理由を聞けば良かったなあとか考えて読み終わった。

 

このブログを書いていたら、又井健太最新作が、4月5日に発売されるのを知った。 

レトロ雑貨夢見堂の事件綴 (朝日文庫)

レトロ雑貨夢見堂の事件綴 (朝日文庫)

 

 

 

 

 

料理ができるようになりたいな

いつもあらかじめ美容室だったり、鍼だったり予約を入れるけれど、近くになると、なんだかんだで、予定が入って、結局、日にちを変えてもらう。明日も、美容室の予約の変更をしなければならない。

 

お店にご迷惑だなと思って、行ける日にまた連絡します、とお伝えするも、それがたまたま当日だったりする。

 

今日も、朝、鍼をしてくれる治療院に電話をして、「開いている時間ありますか」と訊くと、「9:40なら大丈夫です」と言われ、ありがたい、と思いながら、施術を受け、帰りに、お礼を伝えるのを忘れていたと、今、気づいた。

 

車の定期点検にも行こうと思い立ち、車屋にも電話するも、「今日ですか・・・」と迷惑そう。いずれ、定期点検をしている車屋を変えようと思う。

 

自宅に帰って来て、ごろごろと、読書をしていたら、ふと、料理ができるようになりたいなと思い立ち、そういえば、以前から読みたかった坂口恭平『cook』を読もうと思って、本をまず注文した。

 

cook

cook

 

 

あと、水出しアイスコーヒーを作れると良いな、と思った。アイスコーヒーは、ほぼ毎日、飲んでいるので、自分で作れる方が経済的かなと思って。

 

完全なる禁煙はまだできていないけど、1日、2本まで我慢することができている。薬を飲むと、時々、気持ち悪く、吐き気がする。あと一週間で0本にする。0本にして、もう禁煙外来には行かない。

 

 

社会学とは、どういうものか知らなかったけど、好きかもしれない。

社会学社会学とはどのような学問か、と問われれば、はて?となってしまって、ネットで検索した。

 

調べていくと、おもしろいかも、と思った。社会で問題になっている現象に対して、どうしてそうなっているのだろうか?と研究する学問。世の中で当然と思われていることに対しても、本当なのだろうか?と疑問を呈す。結果、別な視点を得ることになる。

 

社会学に興味があって、手に取った本ではなく、いくつかの本屋さんが、薦めていたので、読んでみようかな、と思って、今、読んでいるのが、岸政彦『断片的なものの社会学』。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

小難し本ではなく、読み物としても、おもしろい。岸政彦『断片的なものの社会学』を読んでいると、今まで、疑問にも思わなかったことに、別な視点から光を当てられたようになって、そもそも社会学って、何?となったわけである。

 

幸せのイメージはというものは、私たちを縛る鎖のようになるときがある。岸政彦『断片的なものの社会学』p110

 

幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。岸政彦『断片的なものの社会学』p116

 

幸せについての話を読んでいる時に、近いようなことを言っている友達の言葉を思い出した。その友達は、「世の中、幸せになろうと言いすぎなのではないか」と言っていた。

 

こう書いて気づいたのは、私が、好きな人というのは、私が持っていない視点を持っている人で、ということは、社会学を学ぶことによって、別な視点を得ることができるのであれば、社会学も好きなのではないだろうかと思うに至った。