北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

ヱヴァンゲリヲン新劇場版

たまたまAmazonでPrime VIdeoを開いたら、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の序・破・Qの三部作を無料で観ることができると知って、心躍った。ここ数日、立て続けに観ていた。

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

  • 発売日: 2018/12/20
  • メディア: Prime Video
 

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

  • 発売日: 2018/12/20
  • メディア: Prime Video
 

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Prime Video
 

 

それぞれ、一度は観たことがあるのだが、最新作が映画館で上映される前に、もう一度、見直したいと思っていた三部作。

 

それにしても、最新作は、いつ、映画館で上映されるのだろうか。今年の楽しみにしていたことの一つなのに。

 

改めて、序・破・Qを見直したが、相変わらず、意味がわからない。これは、誰かの夢の中の話なのだろうか?渚カヲルの夢の中なのだろうか?戦艦に糸のようなものがついていた意味は?エヴァンゲリオンが、ヱヴァンゲリヲンになり、シン・エヴァンゲリオンと戻る意味は?たぶん、考えてもわからないし、最新作を見ても、わからないだろう。意味がわからないのに、観たくなってしまうのがすごい。

手に入れたくて仕方ないものが、手に入らないことが重要

非常に重要で大事なものが、一番、欲しかったものが、手に入らなかったことが重要。なぜなら手に入った人より、手に入らなかった人のほうが魅力的だから。

 

横尾忠則さんが言った言葉。録画していたテレビを何度か巻き戻し、繰り返し、見た。

 

自分にとって、非常に重要で大事なもの、一番、欲しかったもの思い出した。

 

生きていると、いろいろある。

 

悲しいこと、苦しいことは、避けて通ることができない。

 

現実に打ちのめされることなんてしょっちゅうだ。

 

打ちのめされながら、手を出す。空振りだろうが、手を出す。

 

それでも、打ちのめされて、倒されて、もう立ち上がれなくなることもある。

 

だけど、都合が良いように、人生は、そこでは終わらない。

 

人生は長い。

 

立ち上がらざるをえない。

 

そんなことの繰り返し。

 

=====

 

 

完璧はしんどい。

 

これも、横尾忠則さんが言った言葉。

 

その通りだと思った。

 

寛容になれ、と最近、苛々している自分に言い聞かせる。

 

今度、横尾忠則さんの自伝的な本を読んでみようと思った。

 

疲れていますね。

疲れていますね、と部下に言われた。疲れていますね、と部下に言われるようでは、だめだなと思ったが、よくわかったね、と答えた。

 

疲れがとれない。

 

疲れているからなのか、苛々する機会も増えた。

 

これではいけないと、体を整えに鍼に行った。

 

 

本気

新潟市古町にGALLERY N7という場所があった。

 

私がGALLERY N7と出会ったのが2007年のことで、今から13年前のこと。

 

GALLERY N7では、定期的にというか、不定期に、作品展やイベントが行われていて、絵を描いている人や音楽をしている人、キャンドルを作っている人や写真を撮っている人、表現手段は様々だけど、表現をしている人や表現を見るのが好きな人が集まっていた。

 

現在の私があるのも、そのGALLERY N7やGALLERY N7で出会った人のおかげだ。

 

私は、鹿子裕文『ブードゥラウンジ』を読みながら、GALLERY N7を思い出していた。

 

ブードゥーラウンジ

ブードゥーラウンジ

  • 作者:鹿子 裕文
  • 発売日: 2020/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

GALLERY N7は、2010年に閉店した。

 

閉店すると知って、GALLERY N7の物語を書かずにはいられない気持ちになって、長い手紙を書くように小説を書いた。

 

鹿子さんの本を読むと、あの時の自分と重なるところがあって、ブードゥーラウンジやブードゥラウンジで出会った人たちへの感謝と敬意が、びしびしと伝わってきて、ここまで本から著者の感情が伝わってくるのも、珍しいことだなと思った。本当、良い本だった。

 

どんなジャンルの音楽でも本気でやり続けよる人の音楽はすごいし、たとえ世間的には無名でも、そういう人の音楽には必ず人が集まってくるんです。だってその本気には、間違ったことがひとつもないから。鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』p84

 

本気というキーワードが、私のアンテナにひっかかった。

 

緩と急。静と動。光と影。その振り幅の中に多様性というものが存在し、世界の豊かさも隠れている。鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』p139

 

人の魅力は、振り幅にある。世界の魅力も、振り幅が大事なんだなと思った。

 

目標と目的は違うと思った。いったい何のために音楽やっとるか。確かにメジャーでデビューすることは目標やったけど、それが目的になってしまったら、その一番大事なところがおかしくなるんすよ。鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』p199

 

ボギーさんの言葉は、的を得ていて、奥行きがある。そんな言葉の数々が、この本に散りばめられていて、兄のボギーさんと弟のオクムラユウスケさんが魅力的に書かれていて、2人の物語として読んでもおもしろい。ネットで、ブログや、ツイッターや、YouTubeで2人の活動を追って、1日が終わった。

 

ミチさんにどれだけの数のバンドが支えられ、また救われているかは、おそらく数値化できない。鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』p216

 

ブードゥーラウンジに観客として訪れているミチさんのことが綴られている言葉を読みながら、大事なことって数値化できないし、見えにくいものなのかもしれないな、と思った。

 

 

携帯ゲームを一回も開くことなく、『ブードゥーラウンジ』を夢中になって読んだ。

 

2020年、おすすめにしたい本の1冊にノミネートされた。

やっていけるとか、やっていけないとか

次の日は仕事だというのに、全く寝つけなかった。

 

3時を過ぎ、4時になり、外が白み、眠るのをあきらめた。

 

パソコンの電源をつけ、桜井鈴茂さんのホームページを開き、新作の小説が発表されていないかを調べた。

 

新作は発表されていなかった。ホームページにリンクが貼られているインタビュー記事を何とはなしに読んでいった。

 

www.100hyakunen.com

 

桜井さんが、大学時代、ロンドンとパリへ旅行に行き、高校時代の同級生に会った話が良かった。

 

その同級生は、頭が良くて、現役で北大に受かるんだけど、1年で退学し、ロンドンに渡って、彫刻作品を作っていた。桜井さんは、その同級生に、「これでやっていけると思ったんだ?」と訊いた。「やっていけるってどういう意味?」って怒ったように問い返され、「やっていけるとか、やっていけないとかどうでもいい。自分が何をやりたいか、わたしにはそれしか関係ない」と言われた。桜井さんは自分が打算的に物事を考えているようになっていることに気づかされたと語っていた。

 

ロンドンでの、もう一人の女性との出会いもあり、桜井さんは、日本に戻ってきて、バンド活動を始めた。というか再開した。バンド活動は27歳まで続いた。

 

その記事を読みながら、数日前、私が、職場の後輩に言った言葉を思い出した。

 

好きなことや、やりたいことを、金に結びつけようとするのは野暮だよ。金にならなくても、好きなことや、やりたいことなら、やれば良い。

 

私が、そう考えるようになったのは何歳の時だったのだろう。20代後半から30代前半くらいだったのだろうか。

 

今も、私は、自分の好きなことや、やりたいことを細々と続けている。

 

ただ、一方、一つのことに全力を傾け、燃え尽きるかのように生きている人に出会うと、私は、自分の好きなことや、やりたいことを、この人のように真剣に、本気で、やったのか?やりきったのか?と問いかけることもある。

 

 

今、鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』を読んでいる。 

ブードゥーラウンジ

ブードゥーラウンジ

  • 作者:鹿子 裕文
  • 発売日: 2020/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

僕はときどき、「ブードゥーラウンジ」の片隅でこんなことを思うことがある。客の数よりもステージに上がる人間の数の方が多い、そんなさびしい夜などにだ。どれだけ活動を続けても報われない人たちは、いったいどうやって折れずにやっているのだろう。安い出演料しかもらえず、それどころか、客が呼べなければノルマを払わなければいけなくるというのに、それでも音楽を続けようというモチベーションはどこから来るのだろう。事実、自分に見切りをつけてやめていく人間だって少なくないのだ。やめる人間と続ける人間。それを分けるのは単純に音楽への愛情の濃さ薄さの問題なのだろうか。それとも生き方の問題なのだろうか。お金のためじゃないというのなら、じゃあなんのためにやっているのだろう。どんな人間にも表現欲求というものがあるにせよ、そうまでして見せたいと思う気持ちはいったいどこから生まれてくるのだろう。存在証明だろうか。生き甲斐だろうか。承認欲求だろうか。誰かが「君の歌はいいよ」と言ってくれるからだろうか。それが気持ちいいからだろうか。それとも、もう引っ込みがつかないという意地みたいなものだろうか。もしそれが意地だとしたら、それはなんのために張らなければいけない意地なのだろうか。あるいは、いろいろ揺れる中でまだ火花がパチンと散っているからだろうか。

 

どれも正解のような気がするし、どれもまた不正解のような気がする。あるいはそんなことを頭に浮かべている時点で、すでに大間違いなのかもしれなかった。

 

客が入らない日の「ブードゥーラウンジ」は、ひんやりとして静かだった。

 

鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』p201-202

 

福岡市にあるライブハウス『ブードゥーラウンジ』を舞台とした物語。この物語は事実である。

 

その物語に登場するオクムラユウスケの物語を読みながら、私は、涙を流した。本を読みながら泣いたのは久々だった。

 

本を閉じ、YouTubeで、オクムラユウスケと検索し、いくつかの動画を見た。動画の中には、私が涙したヨコチンロックフェスティバルの動画もあった。

 

 

私は、ここのところ熱中していた携帯ゲームをやめることにした。

好意的好奇心あるいは肯定的関心

夜中に目が覚めて、寝つけない。まもなく3時になる。

 

昨日の朝は、出勤早々、いやあな気持ちでスタートを切った。仕事をしながら、流れが悪いなあ、こんな日々も久々だなあ、こんな時は、基本に立ち帰ろうと、自分に言い聞かせる。

 

そんなことを考えながら、最近、私のアンテナにひっかかった言葉を思い出した。

 

他者への好意的好奇心、肯定的関心。

 

自分から見た他者のマイナス面を好意的好奇心や肯定的好奇心を持って見ることで、他者の新たな一面を発見できるというか、相手の気持ちを理解でき、他者は、あ、この人、自分の気持ちをわかってくれると、信頼を築くことができるというような内容の話。

 

自分から見た他者のマイナス面は、自分の価値観が発動して、時には嫌悪感なんかのマイナスの感情が先行して、先入観で他者を見るような気がする。

 

好意的好奇心や肯定的好奇心まで気持ちが及ぶかはわからないけど、そこは意識することで、何か、新たな景色が見えるかもしれないから、試しに、意識して生活してみよう。

助けてと言いやすい組織づくり

部下に、助けてと言いやすい組織を作りたいんだけど、どうしたら良いと思う?と訊いた。

 

ここ何日か考えていたんだけど、答えが出なくて、部下に訊いたわけだけど、話しながら、これかもしれない、と思うことがあった。

 

それは、発信すること。

 

助けてという側もそうだし、何かすることがありますか?と助ける側もそう。当事者だけではなく、私自らが、発信する。助けてと、何かできることある?意識して発信することが、助けてと言いやすい雰囲気を作るのではないか。

 

システムを整えることもあるのだけど、意識することで、雰囲気を作れることもあるのではないか、そんなことを考えた。

 

早速、やってみよう。