どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

何かが終わったと感じたときに物語が立ち上がる

 早朝4時半に目が覚めて、トイレに行ったのか今となっては定かではないが、目が覚めたのか、岩田宏岩田宏詩集成』を読んだ。岩田宏の詩集が読みたいと思ったのは、島田潤一郎『長い読書』をseesawbooksで購入した時に、島田潤一郎『長い読書』刊行記念【夏葉社】をつくった100冊に『岩田宏詩集』がその1冊に掲載されていて、島田さんは、20歳の時にこの詩集に出会わなかったら、ぼくの人生はずいぶんと違ったものではないか。面白くて、暗くて、愛情に溢れる、と書いていた。『続・岩田宏詩集』の本の裏表紙には、岩田宏のことが簡単に紹介されており、そこで私は岩田宏が北海道出身だということを知った。岩田宏のことをもっと知りたくなって、Wikipediaを読んだところ、岩田宏は、現在の京極町出身で、今、私が手にしている『岩田宏詩集成』と『続・岩田宏詩集』は、出版された詩集の出版社年からいくと、最近の2冊ということになることを知った。

 『岩田宏詩集成』を読みながら二度寝をしていて、二度寝から起きたのが6時半頃で、妻も起きて出勤準備をしていた。私はストーブの前で暖まりながら、島田潤一郎『長い読書』を読んだ。

 妻は歯を磨きながら捕鯨についてのニュースを見ながら、私は鯨を食べたいとは思わないというようなことを呟いていて、この会話は二度目だな、と思いながら、私は、捕鯨することが必要な人もいるんだよ、と返した。以前、話した時に、鯨を食べるのも、豚を食べるのも、牛を食べるのも同じことなのではないか、と言った言葉は言わなかった。

 島田潤一郎『長い読書』を読んでいると、文体について書いている箇所があった。

 

 若いぼくに力を与えてくれたのは文体だ。

 文章ではなく、文体。

 知恵や経験、物語よりも先にある、作家の脈拍のようなもの。音楽でいうところの「ビート」のようなもの。

 その作家の文体に慣れ親しんでしまえば、作家の作品はなんだって楽しむことができる。

 どんな長いものも読むことができるし、どんな掌編であっても、その独特の味わいを見つけることができる。

 一言でいえば、心地よいのだ。

 それは世間一般でいう、「おもしろい」ということではないし、ためになるということでもない。「文体なんて関係ない、おもしろいものさえ読めればいい」という読書かもいるし、その本になにが書かれているかこそ大切なのだ、という意見は少数派どころか、そちらのほうがマジョリティだろう。

 でも若いぼくにとっては、文体こそがすべてだった。

 大袈裟なものいいをすれば、自分の存在の根幹にかかわるようなことでもあった。

島田潤一郎『長い読書』p68-69

 

 これって、千葉雅也『センスの哲学』でも書いてあったリズムのことと通ずるのではないか、と思った。ただ、私には、このリズムを分かりきっていない。『センスの哲学』もあとで読み直してみようと思っている。『センスの哲学』と同じようなことが書かれている箇所は、他にもある。

 

 日々の生活でほとんどのことのことは語るのに値しない。それはぼくひとりだけが見つめ、あるいは耳を澄ませ、匂いを嗅ぎ、認識した途端に忘れ去られ、ふたた思い出されることはない。

 そうしたその人だけしか見ていない景色や、あるいは、その人だけがなん度も思い起こすおすメディアのなかの風景が、まれに会話のなかや、音楽のなか、小説のなかで、だれかの思い出とぴたりと重なり合うことがある。

 シュチュエーションも、相手も、場合によれば、時代も、国籍も違うのに、「あ、これはぼくがあのときに見た風景と同じだ」と思う。しかも、それはたいてい、「些細な事柄」においてなのだ。

島田潤一郎『長い読書』p65

 

 こう書いていて、滝口悠生柴崎友香の小説のことを思い出し、私も、「些細な事柄」をこの日記に書きたいな、と思い、妻が歯ブラシをしているところや、コメダに来て、トーストを食べている時に思い出した、雨の日に、ドラッグストアに入ろうとしたら、道路を隔てた向かい側のパン屋さんの玄関に若い女性が、通行人がいないのに、「期間限定のパンをご賞味ください」と声を張っていたのを思い出したことも書こうと思った。

 

 何かが終わったと感じたときに物語が立ち上がる。

島田潤一郎『長い読書』p87

 その通りで、あとで、何度も噛み締めようと思った。

 

岩田宏詩集成

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