どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

センスが良くなるには?

 布団で横になりながら、iPadYouTubeを観ていたら、Prime Videoで井上尚弥の試合があることを知った。と言っても、私は、これまで井上尚弥の試合を観たことがなく、井上尚弥が、どのくらい、すごいボクサーなのかも知らなかった。すごい、すごいと言われていることは、もちろん知っている。

 私が観た時には、第2ラウンドで、井上尚弥がネリからダウンを奪ったところだった。井上が第1ラウンドにダウンを奪われたのを知り、巻き戻して観た。井上がダウンを奪われたのは初めてのことらしい。井上尚弥の入場曲は、布袋寅泰が生演奏をしていた。私が、何かしらの入場曲が必要になった時に、使用したい曲を演奏していた。例えば、打席に向かう時だったり。「BATTLE WITHOUT HONOR  OR HUMANITY」。

 こうして巻き戻して観ている間にも、もしかしたら、試合が終わってしまうかもしれない、と思って、現在の地点に戻った。久しぶりにボクシングに夢中になった。辰吉丈一郎薬師寺保栄を観た時以来かもしれない。第6ラウンド。ネリが崩れ落ちる。居間にいる妻に、井上、勝った、と興奮気味に声を発していた。

 次の日、井上尚弥の試合をもう一度、観た。27戦全勝。確かに、これまで、負けなしの日本人チャンピオンを聞いたことがない。

 

 北海道近代美術館で開催されている「琳派×アニメ」展に向かった。雨が降っていた。

 千葉雅也『センスの哲学』を読んだあとに、美術館に足を運びたくなった。何人かにも、『センスの哲学』がよかった、と伝えた。

 『センスの哲学』を読み始めて、以前、ビジネスとアートが関係するみたいなことが書かれていて、その理由は、よくわからないというようなことを思い出して、その理由みたいなのが、『センスの哲学』に書かれているかもしれない、なと頁をめくった。

 

 センスの良し悪しはしばしば文化資本に左右されると思われている、と「はじめに」でも述べました。文化資本が多いとは、いろんなものを鑑賞してたり読んだりしてビッグデータを蓄積していることですが、それは、モデルが非常に多いために、特定のモデルに執着しなくなる、ということでもあります。非常に多くのデータがあり、なおかつ十分にこなれていると、再現志向から降りやすくなる。

千葉雅也『センスの哲学』p45

 

 センスは生まれもったものではない、鍛えることができる、と、どこかで読んだことを思い出した。『センスの哲学』を読みながら、こういうことか、と思った。であるならが、私も、いろんなものを鑑賞しよう、と感化され、まずは、前々から興味のあった「琳派×アニメ」展にでも行こう、となったのである。

 

 遊びとは、わざと不安定な状態、緊張状態を作り出して、それを反復するのを楽しむことでせう。・・・略。楽しさには、実は不快が潜んでいる。

 千葉雅也『センスの哲学』p93

 

 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』でも同じようなことを言っていた。

 

 センスの良さは「余り」だと思います。・・・略。そこで、偶然性に開かれた練習が必要になってきます。

千葉雅也『センスの哲学』p181

 

 ビジネスでも政治でも、あるいは学問の世界でも、食事を共にすることは、解釈を異にする者の間に緩衝地帯を作り出すことです。食事はその一部ですが、広く言って「社交」という実践にはそういう意義があります。

千葉雅也『センスの哲学』p250

 

 職場における飲み会のことを考えている時に、政治家は、なぜ食事をしながら、交渉したりするのは、何か意味があるからなんだろう、と考えたことがあり、あ、前に考えことだと、読んだ。おもしろくて、一気に読み終わった。他の人におすすめしながら、うまく自分でも理解できてないな、と思ったので、また、いつか、『センスの哲学』を読み直したい。

 

 北海道近代美術館の近くの駐車場に車を停め、傘をさして向かった。携帯電話を使い、グーグルマップを開いて、気づいた。火曜日は、定休日だった。