どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

センバツ21世紀枠

 20代の頃に同じ職場だった友達から、元気にしているかなと思ってLINEしました、とLINEが来た。その人から連絡が来るのは、だいたいが甲子園の時期で、なぜ、甲子園の時期かというと、私が野球が好きだからで、その友達が甲子園を見ながら、たまあに私を思い出してくれて、何年かに一度、こうして連絡が来る。いろいろあるけれど、元気だよ、今年度は、仕事運が著しく低下している、と私が返すと、私はいつも低下しているから感覚麻痺しているよ笑。でも、今年度は、プライベートでロードレースで年間2本出れたことなど自分なりに頑張れたかな、と返ってきた。ロードレースって何キロ走るんだろう、と思って送ったら、10kmということだった。高校のマラソン大会を思い出した。確か、10km。野球部の時は、冬期間、毎日、10km走っていたっけ。この年齢ではとてもじゃないけど、無理だなと思って、すごい...。と返した。一緒に走る仲間を募集しているけど、なかなか見つからない、と返ってきて、俺なら走るね、と軽い返したら、えーじゃあ9月のニセコラソンに出ようよ、と返ってきた。9月は、オーストラリアに旅行に行きたいと思っていたから、仕事そんなに休めるかな、と思ったけど、走りたいというか、久しぶりに、その人に会いたいということもあって、前向きに考える、とLINEが終了した。

 

 朝、出かける準備をしながら、NHKのニュースで、センバツ21世紀枠に別海高校が候補として選ばれているという特集をしているのを目にした。監督が就任した当時は部員が5人だったかで、道具も、お古を練習試合をした相手校からもらい、監督が就任して8年が経過し、昨年の秋の北海道大会でベスト4になったということだった。冬で外の練習ができないので、町営の施設を借りる交渉を監督がして、別海町の人たちがネットを整備したりしている映像を見ながら、こういう町の盛り上がり方って良いな、と思った。コメダに移動して、別海高校野球部のことをもっと知りたくて、コメダにあったスポーツ新聞を読んだり、ネットの記事を読んだりした。優勝した北海高校に準決勝で6−1で敗れたと知った。これで21世紀枠に選出されたら、別海は、数十年に一度の祭りになるだろうな、そうなって欲しいな、と思った。

 阿久津隆『読書の日記 皮算用/ストレッチ/屋上』も終盤に差しかかり、阿久津さんがiPadを購入する過程を読みながら、2月になったら、私もMacbookを買おう、と思っていることを思い出したり、阿久津さんがシフト調整をしている箇所を読めば、私もシフト管理が、何かソフトみたいなので、もっと時間短縮できないものか、と思ったりした。

 美しさみたいなものへのこだわりが小さい会社なのかもしれないと思った。美しくなくていい人たちというのが僕は怖い。阿久津隆『読書の日記 皮算用/ストレッチ/屋上』p575

 美しさ。何か大切なキーワードのように感じた。野球でも、守備が美しく見えるのは、すなわち正しいキャッチングや、正しいスローイングができているということだと、高校野球をしている時に監督が言っていた言葉を思い出した。働いてからも、上司が女性にモテるような仕事の仕方をしろ、と言っていたのも、この美しさに通ずるのだろうな、と考えながら読んでいた。11時を周り、喫茶店の梯子をしようかと思っていたけれど、自宅に帰ることにした。

 21世紀枠は、どうなったのだろう、とネットで検索したら、別海高校が選ばれていた。

 

内在的論理

 仕事を終え、返ってきた私に、妻が、佐藤優って知っている?と訊いた。クローズアップ現代佐藤優が出演していて、おもしろかったと言っていた。妻の話を聞いていて、興味が惹かれたのが、内在的論理の話だった。NHKのホームページを読むと、こう書かれている。

 「内在的論理」とは、それぞれの国、あるいはそれぞれの団体がどのような論理でこのようなことをしようとしているのかということです。その論理をまず知ることが必要だと。つまりそれに賛成する反対するということではなく、まずは相手のことを知ろう、あるいは言ってしまえば敵のことを知らなければ対応もしようがないでしょうと、こういうことですね。

 今、「論破」って言葉があるでしょう。「論破王」がいたりしてですね。「論破したぜ」というと、そこで終わっちゃうんですね。論破したよ、はいおしまい、になる。だから世の中はダメだんですよ。そうではない、相手との意見が対立していても、でも相手が何を考えているかを理解した上で、それについて対応する。そうしたらまた向こうから返ってくるという形で、キャッチボールが行われますよね。それが結果的に次の解決につながってくる。とにかく「相手が論破したぞ」、「こっちが勝った」。勝ち負けだったら先に進まないわけですよね。結果的に対立が続くということになる。対話でとにかく何を言っているのかしっかり理解した上で、それについて私はこう思うという形で、少しでも議論をかみ合わせていくということ、それが(物事の)解決に進んでいくということだろうと思うんですね。『クローズアップ現代取材ノート』25年ぶりの“出演““佐藤優“とは何者か

 20代の頃、上司に同じような話を訊いていたことを思い出した。他職種との連携のコツを訊いた時に、上司が、「聞くことだよ」と言っていた。聞くこと?と呆気に取られている私に、なぜ、相手がそう言っているのかを考えること。まさしく内在的論理。20代の頃から、その言葉を、今も大切にしているけれど、私にとっては実践するのは難しい。

 今の私にとって、必要な話だったのだろうと、次の日の朝も思った。なぜなら、その日は、立て続けにいろんな職員だったり、学生だったりと話をする機会があったから。つい先日、部下に、教えを乞いたいのではありません。対話をしたんです、と言われたばかりだし。

 ということで、私は、まずは、話を聞かせてよ、その日は、みんなの話を聞いたのでした。

難しいが口癖だった

 ハンドルを握り、信号待ちしている間、それにしても、今年は、仕事運がない、と思ってすぐに、今年は始まったばっかりか、今年じゃなくて、今年度、と思い直した。仕事運と「運」のせいにしてる時点で、、、と苦笑しながら右折した。

 対話ねえ。対話って何だっけ?対話の定義は?難しい。難しいと思ったこと自体、久々だった。そういえば、対話についてというか、コミュニケーションについて書かれていた本を読んだ。日記を書いている途中で、一旦、保存し、そのままにしていた。ちょうど良い。これを機会に書き直すことにした。

 

 傷つかないための対話をするのではない。むしろ逆である。互いが安全に傷つくためにこそ対話がある。人は傷つくことなしには生きられない。生きるとは傷を受け、そこから回復することの繰り返しにほかならない。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p70

 

 Xで、『風を通すレッスン』の抜粋をたまたま目にして購入した。安全に傷つく。安心して傷つく。安心して言いたいことが言える。心理的安全性という言葉を思い出した。組織運営に何か、役に立つかもしれない、と頁をめくった。頁をめくりながら、対話とは、いかなるものかを改めて考える必要があると思った。

 対話というか、人と人との関係におけるコミュニケーションについて、何度となく考えていくんだろうな。ここで殴るような言葉を投げかけると、安全に傷つくことじゃないよな。 

 

 会話は知り合い同士や、たまたま居合わせた人の間でなされるおしゃべりであると述べた。それに対して、価値観が違う者同士で交わされるのが対話だ。また、議論や討論とちがうのは、必ずしも結論を出したり、どちらが正しいかをはっきりさせることを目的としない点だ。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p65

 対話がよくて、会話や議論がよくないということではない。会話がふさわしい場もあるし、議論や討論が必要な場もある。でも、人と人との言葉のやり取りが、会話や議論だけになってしまうと、その中では伝えられない思いが行き場をなくしてしまう。

 対話ができる空間とは、自分が感じている違和感を安心して表明できる場のことである。共通点を確かめることによって安全を得るのではなく、違っていても安全であることを確認する場だ。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p65ー69

 

 違っていても安全であることを確認する場。安全であることを確認するのはどういうことだろう。それは否定されないということ。だけど、違いを表明することが、否定されていると感じることはないのだろうか。

 

オープンダイアローグには、こうしたらいいというマニュアルがあるわけではない。むしろ、マニュアル化したりせず、治療者と患者、専門家と素人というような上下の関係性をなくし、水平で対等な立場で対話をつづけようとするものだ。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p46

 

 治療者と患者、ケアする側とケアされる側にという関係性によって、対等な立場になりうるのだろうか?あらかじめ役割がある状態で出会い、そこに何らかの金銭関係が発生する出会いを対等と言えるのだろうか。対等になり得るかはわからないけれど、ここでいう患者やケアされる側が、人として大切にされている状態が大切なことは容易に想像でき、ただ、その大切にされている状態を感じないというのが、いろんなところで起こっている。それはなぜなのだろうか。

 

 人と人が話しあえば、緊張が生まれるのは自然なことだ。その緊張が各自の中でほぐれていくのをしんぼう強く待つ。結論を出すことを目的とするのでもなく、権威に従って物事を決めるのでもなく、客観的データにもとづいて判断を下すのでもなく、寄り合いの参加者ひとりひとりに納得感が生まれるまで、のんびり話し合いをつづける。テンションを高めて強引に解決するのではなく、ごはんを食べたり、疲れたら横になったり、眠くなったら寝たりしながら、けっして無理せず、世間話を交えて話をつづけているうちに、問題が問題ではなくなってきて、結果的に問題が解消されるという感じかもしれない。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p51

 

 これかもしれない。納得感か。ただ、納得感が生まれるには、お互いが、お互いの思っていることを表明しなければならない。

 そういえば、この前、会議に出ていて、先輩職員が断定的な口調だと、ラリーができないよね、と思ったことを思い出した。私も、そのようになっているのではないか。自信は、時として、断定的な口調になり、相手に有無を言わせないようにしてしまうのかもしれない。まずは、聞く、話そうとしている時に、じっと聞くことから。 

 

 オープンとは、なにもかも透明化して共有化することではない。かくしておきたいこと、口にできないこと、本人の中でまだ受け入れることができないことを陽の光の下にさらすのではなく、そうしたものを抱えているひとりひとりを、互いにまず受け入れる。弱みを握られているのと、弱みを受け入れられていることとは、根本的にちがう。まずお互いの弱さを受け入れることこそがオープンな対話の基盤になるのではないか。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p53

 

 他者とのコミュニケーションを阻む最大の障壁は、相手を「わかったもの」にしてしまうことだ。「わからない」相手に向き合うのには忍耐力や情熱がいる。そのため、私たちはしばしば、「この人はこういう人だ」と「わかったもの」として扱おうとする。

 ・・・人と人との関係では、どっちかが「わかった」といった瞬間にコミュニケーションは終わってしまう。「わかった」とは、こちらの物差しで相手の内心を推し量り、そのイメージを固定してしまうことだからだ。

 逆に、わからないもの、未知のものがあると思うと、コミュニケーションはつづいていく。自分には見えていない世界を相手は見ている。そう感じる時、人は謙虚になる。謙虚になるとは、相手が秘密にしておきたいこと、言いたくないことを、あえて聞き出さないことでもある。相手の心の中を、こちらが想像して、勝手に「こうだろう」と決めつけるのではなく、そのままにしておく。相手の内心を読まないのは、相手の尊厳を守ることにもつながる。田中真知『風を通すレッスン 人と人のあいだ』p57−58

 

 難しい。言いたくないことを、あえて聞き出さないこと。そうしてきたけど、そうしてきたけど、言いたくないことは言わなけきゃいいじゃんって思ってきたけど、それが後で爆発するなら、言ってくれよって思っちゃう。

 

湯たんぽ

 ピー、ピー、ピー。こんな日に限ってエンジンスターターで車のエンジンがかからない。昨日は、今年、初めてのホワイトアウトになった。ホワイトアウトの中、のろのろと、自宅までたどり着き、鍋焼きうどんを食べている最中に、会社の代表から、職員は、無事、帰ったか、と電話が来た。一人は実家でそのまま泊まり、もう一人は、まだ働いています、と手短に答え、私は、電話を切り、鍋焼きうどんを啜った。何か心温まる電話だったな、と思った。温まるといえば、最近、湯たんぽを使用している。湯たんぽを足だけではなく、抱き抱えるときもあれば、太ももに挟んで寝ることもある。起きたら、だいたい、湯たんぽは、どこにあるかわからない。

 

 今日は、寒い。痛みが伴うほどに寒い。会う人、会う人に、今日は寒いね、と言って歩いた。どうもマイナス10℃を下回っているらしい。いい加減、もう片方の手袋を探さなければならない。右だったか、左だったかの手袋しか見当たらない。

 事務所に戻り、たまたま一人の職員と、ケアとは何かという話をしていたら、面白そうですね、と、もう一人が加わり、東畑さんの本に書いてあったんですけど、と東畑さんや、中井久夫さんの本から引用してケアについて説明してくれ、その話がうまくて、また、読みたい本が増えた。

 また、ついつい話してしまった、と職場を後にし、自宅に着くと、妻がストーブの前で、今日も勉強していた。私は、テレビを観ながら妻が作ってくれたしょうが焼きを食べた。JAXA探査機「SLIM」が無事に月面に着陸したというニュースが流れていた。SLIMから分離されたカメラが搭載されたロボットというのか、なんと呼べば良いかわからないが、それを玩具メーカーが開発したとのことで、確かに、玩具メーカー、良いかも、と思いながら観ていた。iPadプロスピAをして、気づけば22時を過ぎていたので、過ぎていたのでというか、勉強をする気が起きないので、今日は、阿久津隆『読書の日記 皮算用/ストレッチ/屋上』の続きを読みながら、眠くなったら寝ようと思っている。

 

音読

 dカードGOLD年間ご利用額特典を何とはなしに眺めていた。そういえば、昨年も見たなあとか思いながら。昨年は、使いたいものもなかったから、結局、使わなかった。dブックにも使えるのね、と、最近、読みたい本の一冊を検索で入力すると、読みたい本が電子書籍化されていて、もしや、このアプリは使えるのではないか、とさらに調べた。dカードGOLD年間ご利用額特典が22,000円分のクーポン。22,000円があれば、今、読んでいる漫画、一年分に相当するのではないか。ちなみに、最近、漫画は場所を取るから一部の漫画を除いて、電子書籍で読むようになった。昨年、使わなかった22,000円分のクーポンは勿体無いことをしたのではないか。いや、昨年の段階だと、kindle一本で行こうと思っていたから、致し方ない。これから特典対象者限定のダイレクトメール(ハガキ)が届くらしいのだが、それがいつ頃、届くのかが不明で、ただ、クーポン交換期限は5月15日というのは明示されている。この感じだと、そのダイレクトメールが届く頃には、今、考えていることを忘れている可能性も無きにしも非ず。

 妻は、今日も勉強をしている。時々、音読しながら、勉強をしている。私は、携帯電話でXを開き、たまたま目にしたNumberの記事を読む。同じく、音読しながら。妻の音読に被せるように。青山学院大学を一躍、箱根駅伝の強豪校へと導き、今年の箱根駅伝でも総合優勝を成し遂げた原晋監督。就任当初、徐々にチームの実力を上げてきた原は関東学連選抜監督を務めることになる。今や伝説となった学連選抜での「4位」はどのように成し遂げられたのか。妻は、今は、(その情報)いい、と言いながら半笑いをしていた。

 

イチケイのカラス

 スローモーションで雪が降る。何も音がしない。部下との面談の場面が頭の中で自動再生され、犀の角のようにただ独り歩め、という言葉が浮かんだ。

 仕事を終え、自宅に帰ってきて、妻が作ったミートソースを食べ、妻は、明日は休みだから、たまあにお酒を飲もうと嬉しそうにお酒の準備をし、録画していた映画『イチケイのカラス』を再生した。たまあに?とは思ったけれど、嬉しそうにしているところに水を差すこともないし、飲みたい時に飲めば良い。

 阿久津隆『読書の日記 皮算用/ストレッチ/屋上』の続きを読もうと開いたが、『イチケイのカラス』が気にかかり、妻と一緒に『イチケイのカラス』を観た。

 2時間ほどの映画よりも、ドラマのほうが、より登場人物が魅力的に感じられるだろうなあ、と思ったし、妻にそう話した。ただ、これから何時間もドラマを観るつもりはない。主人公は、入間みちおという。入間みちお。自分のペンネームにするのは嫌だけど、なんか良い名前だな。最近、なんか良いという名前が何文字かを数えていて、入間みちおは、6文字。文字数が響きに関係するのだろうか。

 『イチケイのカラス』で、裁判官には他職経験制度というものがあることを知った。裁判官が、その職を離れ、一定期間、他職種を経験するというものらしく、もっと知りたいと思って、ネットで検索したのだが、めんどくさくなって途中でやめた。一度、裁判官になってから、他職種を経験するという理解で良いのだろうか。

 私の職場で実施する場合、一旦、配属先で働いてから、他事業部の経験をするパターンと、新卒で、あらゆる事業部を経験してから、配属先が決まるパターン。どちらが良いのだろうか。

 

 

昼食を兼ねた朝食はブランチ。では、夕食を兼ねた昼食は、何っていうでしょうか?

 昼食を兼ねた朝食はブランチというが、夕食を兼ねた昼食は何と呼ぶのだろうか。あまりお腹が空かないから、昼食は後ででも良いや、と思ったら16時になっていた。

 初めてパーラートモミを訪れた。本が丁寧に並べられている棚を眺めながら胸が躍った。まずは、食べ物の注文をしようと、一通り、メニューを眺めて、ナポリタンにすることにした。すぐに席を立ち、トモミ文庫に並べられている本を眺めた。喫茶店の店内にある本を販売しているコーナーをトモミ文庫と呼んでいるようだった。先日、Amazonで購入した御代田太一『よるべない100人のそばに居る』が売っていて、おっ、なぜに、この本を、と思った。本は全部で数十冊だろうか。割合的に、絵本や詩集や短歌が多い印象だった。財布の中身は、こんな時に限って5000円ほどで、ナポリタンの料金を払ったら、本は何冊買えるだろうか、と思案した。よくて2冊か。小原晩『これが生活なのかしらん』を購入したかったけれど、後日、Amazonで買うことにして、ここでしか買えないような気がする池田綾乃の詩集を2冊購入することにした。『一杯の水を注ぐ手紙』、『舟』だった。自宅に帰ってきて、『一杯の水を注ぐ手紙』を手に取り、読み終わってからも、『一杯の水を注ぐ手紙』とは、どういったことを表現しているのだろうか、と考えたが、よくわからない。わからないけど、何か良い、と思った。小原晩を、ネットで検索すると、女性だった。『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』が、初めての著書のようで、読書メーターの感想を読んだら、『これが生活なのかしらん』よりも先に『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を読みたくなったので購入した。パーラートモミは、2階が読書室のようになっているようなので、もっと時間がある時に、再び、訪れたい所存。

 割と時間がなく、足早にパーラートモミを後にし、GALLERY  MoNMAに向かった。12月23日から1月15日まで開催している展覧会、Table(大橋鉄郎+葛西由香)を観たかったからで、パーラートモミとGALLERY MoNMAは割と近くてよかった。そういえば、引っ越しする前は葛西さんからDMが届いていたっけ。来館者名簿に、名前と新しい住所を書いた。