どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

悪役がいないそのなかでそれでも悲劇が起きることが悲しかった。

月が綺麗だ。月を見上げながら、子どもの頃、天体望遠鏡で月を見ていたことを思い出して、また、天体望遠鏡で天体観測をしたいと思った。思ったけど、見るのは、せいぜい一度か二度なので、科学館とかで見ようと思った。思ったけど、寒くなってきたから行かないかもしれないし、どちらかというとその可能性の方が高い。

 

行こうと思って、行っていないところに明日、行こうと思っている。明日は、美容室に行き、昼食は、クロック。クロックのあとは、映画館に行って、「カメラを止めるな」を見よう。合間で、ブックオフに行き、佐藤泰志保坂和志の本を探そう。小説の続きも書こう。

 

読んでいる『読書の日記』は半分を過ぎた。昨日、読んだ箇所に、こんな記述があった。”悪役がいないそのなかでそれでも悲劇が起きることが悲しかった。”確かに、私の周りの人たちも悪役はいないな、と思った。いるのは私と合わない人がたまあにいるだけ。合わないと思っているその人も、正しいと思うことをやっていて、そのやり方や表現の仕方が、気に食わないだけ。で、悲劇が起こる。悲劇というほどでもない。

 

『読書の日記』と並行して読んでいるのは、雨宮まみの『女子をこじらせて』。雨宮まみが『読書の日記』で紹介されていて、そういえば、私の本棚にあったな、と手にとっった。雨宮まみは、自分の容姿に自信がないというようなことを書いていて、どんな容姿の人なんだろう、とインターネットで調べた。全然、コンプレックスを感じるような容姿じゃないのにな、と思った。40歳で亡くなっているということも初めて知った。1976年生まれというと、学年でいえば、私の一個上。

 

楽しみにしていたドラフト会議が終わった。sportsnaviで指名された選手達を眺めながら、やっぱりプロが選ぶ視点は、野球ファンが見ているよりも、深いな、と思った。根尾と小園が4球団、藤原が3球団の指名を受けた。根尾は中日に、藤原がロッテに、吉田が日ハムに指名された。吉田の交渉権を日ハムが獲得して嬉しかった。また、日ハムの試合を観る楽しみが増えた。柿木が5位というのもびっくりした。柿木も日ハム。将来、柿木と吉田の投げ合いを観るのが楽しみだと思っていたら、同じ球団で、びっくりした。お互い、切磋琢磨して、日ハムのエースに成長してくれたら嬉しい。

 

雨宮まみの『女子をこじらせて』の続きを読みながら、眠くなったら寝よう。

周りに合わせるのが、疲れた人に読んでもらいたい1冊

朝。猫の鳴き声で起きることがある。ご飯をちょうだいと鳴く。起きて猫にご飯をあげる時もあるし、めんどくさくて、無視することもある。ある日、私は起きて寝室を出ると、猫が寝室の前でしゃがんでいた。猫の体が冷たくなっていて、ごめんね、と思った。

 

朝、読みかけの『非属の才能』を読み終わった。さわや書店フェザン店では、ブックカバーに、こう書いて売っている。

あなたではない人にこそ、この本を薦めたい。それで、こんな売り方を考えました。表に出せない心の叫びを癒すこの本を本当に必要としている人は、世の中に大勢いるはずです。でも、そういう人はこの本を自分では決して買わないでしょう。あなたの大切な人が、切実にこの本を必要としています。そう信じて、あなたの家にこの本を置いておいて欲しい。今すぐではないかもしれませんが、きっと役に立つ日がきます。書店員X。

 

第5章の非属の扉をこじ開ける方法からおもしろくなった。

 

第一歩は「サボる」こと。ガッツンときた。読みながら、8:2の法則だったか、2:8の法則だったかを思い出した。思い出したというか、最近、考えていた。どんなに優秀な人を集めても、2割は怠けるって話。たぶん。ただ、その2割は、普段、怠けているんだけど、ある時、今までの方法よりも、良い方法を見つけるらしい。

 

選択肢を広げるための読書のところも良かった。

 

読書を開始するのに二つのことに注意してほしい。一つは、ドフトエスキーや芥川龍之介太宰治川端康成三島由紀夫といった、いわゆる文豪の作品は敷居が高いから・・・などといって安易に避けないことだ。山田玲司『非属の才能』

 

まさしく、私。著者がいうように、私も時代を超えて、読み継がれるものは、何かがあるのだと思う。だから、私も、気になった時には手にとって開いた。開いて、読んでも頭に入ってこないから、本を閉じた。太宰治の『人間失格』はあまりにも悲しい話だ、と、途中で読むのを辞めた。だけど、私は、再び、挑戦しようと思っている。日本のものも、海外のものも。阿久津隆『読書の日記』を読んでいて、海外文学を読んでいない私は、もったいないことをしているかもと思った。

 

そしてもう一つは、その作品が書かれた時代背景や作者についての解説を読むことである。・・・時代背景まで理解して作品と向かい合うことで、その時代と現代の二つの視点から重層的にものごとを考えることができるようになるのである。山田玲司『非属の才能』

 

そういえば、NHKの深夜にやっていたあの番組おもしろかったなあ。なんという番組だっただろう、と思って、ブログを書く手を止めて、インターネットで検索したら、わかった。「知恵泉」。私が観た時は、たまたま太宰治を取り上げていたんだけど、太宰治を読みたくなった。

 

とにかく、思いついた表現方法すべてを試すことだ。ここで重要なのは、人には見せないことだ。・・・見せるだけならまだいい。もし見た人の意見を聞き入れ、作品そのものに手を加えようとするなら、それは限りなく駄作に近くなってしまう。山田玲司『非属の才能』

 

ここの箇所が良いなあと思った。一方、第7章では、その表現について、こんな記述があった。

 

人に認められないとか、友人に恵まれないと嘆いているあなた。あなたの話は相手を喜ばせるものですか?それとも自分だけを喜ばせるものですか?山田玲司『非属の才能』

 

この本が良いと思ったのは、和をもって属さない。群れずにつながるということ。こう書いていると、つまりは、自立せよということか。周りに合わせなくて良い。そこに才能が眠っている、という一方、その状態でも人とうまくつきあうことはできるよ、とバランスが良い。

 

大人になって良かったと思うのは、小学生や、中学生、高校生の世界は狭いと気づいたこと。世の中にはいろんな人がいるということ。会おう、会おうと思って、会ったわけではないけれど、おもしろい人に何人かあった。そして、私がおもしろいと思う人は、この非属の才能がある人たちのような気がしている。

 

 

非属の才能 (光文社新書)

非属の才能 (光文社新書)

 

 

誰かに起こりうることは、私にも起こりうる

「誰かに起こりうることは、私にも起こりうる」昨日から、私の頭の中で、何度となく木霊している言葉。映画だったか、漫画だったか、小説だったか、エッセイだったか、どの作品でその言葉を知ったのかは忘れた。ブログ内を検索してみたけど、わからなかった。もう一度、その作品に触れたい。

 

昨日、書いたばあちゃんの話もそう。「うちに帰りたい」。当然、誰もが年をとるわけで、施設で過ごすことは大いにありうる。私は、障がいがある方も同じだと思う。いつ私の身に起こってもおかしくないと思ってる。いつ難病になるかもわからないし、年をとれば、足腰が弱り、身体障害者のような状況になるかもしれないし、私ではなくて、私の家族がそのようになるかもしれない。

 

例えば、仕事。管理職の人が、下からの突き上げにあう。合わない人なら、いい気味だと、性格が悪く思うこともあるが、私にも当然、起こりうる。現に、数年前に起こった。仕事なんて、不安定。いつ、辞めたいと思うような出来事が起こるかはわからない。そう考えれば、合わない人でも同情する。自分が何かできないかとまでは考えないけど。

 

私は、今日も1日の仕事を終え、家路につく際に、本棚を整理しようと思った。これまでは、ジャンル分けをして、アイウエオ順に並べていたが、それだと、魅力を失っている棚ができる。そこで、考えたのが、書店別にするというアイディア。そう思いついたら、いてもたってもいられず、夕飯をそっちのけで、本棚の整理をした。整理をしている途中で、めんどくさくなって、途中でやめた。だから、整理する前よりも乱雑になってしまった。

 

本棚は、そのままに今日、自宅に届いた『キングダム』と『宇宙兄弟』の最新刊を読んだ。あいかわらずの安定したおもしろさ。あまりにも集中して読んだから、自分も、その世界に入り込めた。 

キングダム 52 (ヤングジャンプコミックス)

キングダム 52 (ヤングジャンプコミックス)

 

 

宇宙兄弟(34) (モーニング KC)

宇宙兄弟(34) (モーニング KC)

 

 

『読書の日記』の合間に読んでいた『非属の才能』もおもしろくなってきた。学校でひとり孤独を感じている人に読んでもらいたい。中学生や、高校生や、大学生に読んでもらいたい本の特集記事を書こうかと思いついたが、思いついた本が、森達也『世界を信じるためのメソッド』一冊しか思い浮かばず、いずれだな、と思った。『非属の才能』に紹介されていた山本譲司畑村洋太郎が気になってインターネットで調べた。

 

山本譲司。元衆議院議員。秘書給与流用疑惑で実刑判決。刑務所で累犯障害者と出会い、出所後、訪問介護員として働く。著書に、『累犯障害者』、『獄窓記』などがある。

 

畑村洋太郎東京大学名誉教授。「失敗学」なる学問を始める。著書に、『本当に役立つ「失敗学」』など多数。

 

 

うちに帰りたい

パ・リーグクライマックスシリーズの結果をニュースで知った。西武のファンではないけれど、10年ぶりだし、広島対西武が見たかった。だけど、西武が負けた。残念。

 

最近の関心ごとは、25日に開催されるドラフト会議。金足農の吉田と、大阪桐蔭の根尾の行き先。巨人は、根尾の獲得に動くみたいだけど、吉田の方が良いのではないか。じゃあ、根尾は?今、ショートを必要としているチームはどこか?本棚にある選手名鑑を出して来てみたが、その選手名鑑が、今年のものではなく、昨年のものだったので、いまいち、どこのチームが良いかはわからず、そんなことを考えていたら、21時頃に寝ていた。

 

朝、起きて、ばあちゃんちに向かうために、ひさしぶりに高速道路を車で運転した。車の中でも根尾にとってのベストなチームを考えて、中島がいるけど、日ハムが良いな、と思った。日ハムに入ったら、直接、試合を見ることもできるし。直接、球場に足を運んで見たい選手。日ハムは、その年で一番という評価をしている選手を取りに行く方針だと何かで聞いた。たとえ、競合しても。その方針は巨人も取るべきだと思ってる。巨人は、スーパースターを育てるべきだ。松井のような。ここ何年かは、日ハムの試合ばかり見ているので、巨人熱が、完全に冷めているが、巨人が強くなければおもしろくない。

 

そんなことをつらつら考えながら運転していたら、10時にばあちゃんちについた。私の両親、親戚のおじさん、おばさんが会いに来てくれた。近況を訊いて、ばあちゃんがいる特別養護老人ホームに行った。ばあちゃんは、食堂のような広い場所のテレビの前で座っていた。開口一番、「うちに帰りたい」と言った。「うちにいる猫と一緒に暮らす」と。ばあちゃんちには猫はいない。私が小学生の時に、ばあちゃんちの物置に勝手に住み込んだ野良猫がいたのは覚えているけど、ばあちゃんちで猫を飼っていた記憶はない。「帰りたいよね」とばあちゃんに返した。親戚のおじさん、おばさんたちは、施設の職員と会話を交わし、私とばあちゃんがいるところに来た。ばあちゃんは、親戚のおじさん、おばさん、私の母に向かって、うちに何度も帰りたいと言った。ここには大勢の人がいるが、知らない人ばかりだと言った。とことこ一人で歩いて帰ると言った。ばあちゃんは、9月に96歳になった。私からみると、96歳なのに、元気だと思うけど、親戚のおじさん、おばさんたちは、ばあちゃんが「うちに帰りたい」と言うたびに困った顔をしていた。私は、「今度、ゆっくり来れた時に、おれがうちに連れてくよ」とばあちゃんに言った。ばあちゃんは、「おまえはいつ来るかわからない」と言った。そのとおりだと思った。

 

ばあちゃんに、「また来るよ」と言って、親戚のおじさん、おばさん、両親とラーメンを食べに行った。親戚のおじさん、おばさんたちは、テレビを見ながら、昨日の駅伝の話をしていた。ラーメンを食べ終わり、ここはおれの出世払いで、と私が言うと、親戚のおじさんが、「もっと出世してからで良い」と言った。私は、「これ以上の出世は見込めないから、今日、払うと言ったけれど、お金を受け取らなかった。今後も、私の出世払いは訪れないな、と思った。

 

ラーメンを食べた後は、昔、住んでいた町の整体師に体を診てもらったり、よく行っていた神社に詣でたり、ブックオフに行ったりしながら家路についた。そして、また、ばあちゃんが言っていた「うちに帰りたい」と言う言葉を反芻した。早く死んでしまいたいくらいのことを言っていた。私は、周りの人も、長生きしたくないと言っていたのを思い出した。体も自分の思うように動かなくなり、いろんなことが自分でできなくなっても、自分の望むような生活を送り、最期を迎えることができるようするためにはどうしたら良いか。親戚のおじさん、おばさんも長いこと自分たちの生活がある。ましてや、おじさん、おばさんも70代で、すぐにでも介護が必要な年齢だ。私は、AIの介護ロボットが一番、良いと思うけど、仮に実現しても、それは、自宅を買うくらいのお金だろう。実用的になるのは、もっと、もっと先。私ができることは限られている。私ができることは身近な大切にしているのために動くこと。家族もそうだし、友達も。だけど、ばあちゃんのために力になれることも限られている。主にばあちゃんをみているのは、一番、近くに住む親戚のおじさん。私が、ばあちゃんを家につれて帰ってこれるとしたら、年末年始だな、と思った。

つぼ

朝、起きて『読書の日記』を読んだ。あいかわらず、読みながら、新たな読書のつぼが押される。まだ読んでいない角田光代の『対岸の彼女』を読もうとか、前から欲しかった保坂和志の『試行錯誤に漂う』を買おうと思って、ネットで買った。

 

つぼといえば、あいかわらず、体が痛い。座っていると腰が特に辛い。月曜日に、ばあちゃんちに行く予定で、その時に、昔、お気に入りだった整体師に連絡しようかなとも思ってる。

 

仕事終わりには、久々に、会社の同僚と食事をした。つぼ繋がりで、つぼ八に行った。なぜにそんなにモチベーションを維持できるのかを同僚に訊くと、自分がモチベーションが高い時と低い時は、どういう時かを考えて、低い時の項目を減らすように努力すれば、自ずから高くなります、と言っていた。感心した。私は、ここのところモチベーションが高いとか低いとか意識しないで働いて、ほぼ一定だけど、やっぱりなんとなく、調子が出ないというときもあって、自分がどんな状況で、どう反応するかを理解するのは良いかもしれないと思った。

 

仕事といえば、先日、私は想像力が足りないなと反省した。本を読んでるのに、こういう時に、人の気持ちを想像できないなんて、本を読んでいるのが活きていないなと思った。人の気持ちを想像できるようになるために本を読んでいるわけではないが、人の気持ちを想像できるようにはなりたい。昔のことを思い出した。ばあちゃんは、私に、あれを食べろ、これを食べろと、喜んでもらうためかはわからないが、食べ物を通して、愛情を表現していたのか、そこまでは考えていなかったかもしれないが、兎に角、この方は、晩ご飯を用意していた可能性があって、私は、そんな簡単なことに想いを馳せることができなかったと、謝りたい気持ちになった。もっと人の気持ちに想いを馳せる習慣を身につけたいと思った。

 

仕事を終え、自宅に帰って来て、外で煙草を吸っていると、森の中から獣、おそらくは鹿であろう呻き声のような、悲痛な鳴き声が闇夜に響いた。 

 

読書の日記

読書の日記

 

 

 

だめで、もともと

『だめで、もともと』とは、誰が最初に言った言葉だろうか。勇気が出る言葉だ。当たって砕けろも、同じような意であるが、当たって砕けろはよりも、『だめで、もともと』の方が、私は好きだなあ。

 

久しぶりに、『だめで、もともと』と思いながら、ある書店にメールをした。その書店でしか実施していないフェアの本が買いたくて。

 

その書店のホームページを見ると、本の通販はしていないようだった。直接、行こうかとも考えて、飛行機を調べたけど、思いのほか高い。万事休す。どんな本を売っているのかは、直接、店頭に行かないとわからない。ネットにすら漏れていない。そのフェアは10月末まで。やるならいましかねえ、と心の中の田中邦衛が私の背中を押した。

 

次の日、その書店からメールが来て、北海道にお住まいで来られない理由もわかります、つきましては・・・ということで、本を買えることになって、いくつかのメールのやりとりをして、本日、商品の発送が終了したとメールが来た。ありがたい。

 

得てして、だめで、もともとと思いながら、とった行動で、うまくいくことが結構ある。そもそも、だめで、もともとと行動を起こしたのが、今回で2回目のような気もしないでもないが。

 

読みたい本が、積み重なって行く。

登山でいうところの2合目あたり

あいかわらず『読書の日記』を読んでいる。読んでいたら、ストーブのガード(銀色の網)を触った音が聞こえて振り返った。猫が触ったのだろう。ここのところ、ストーブのつきはじめに猫がとる行動。何を意味しているのだろうか。早く温かくなってとでも言いたいのだろうか。ともかく猫はストーブが好き。大好き。

 

私は再び、『読書の日記』を読んだ。今、230項。ふと振り返って、猫を見たら、ストーブから離れ、私に近づき、近づくといっても、ある程度の距離感を保ち、姿勢を正して座っていた、いや、あれは猫でいう立っているになるのか。心の中で、だるまさんが転んだか、と思った。

『読書の日記』を読みながら、本棚にある植本一子『かなわない』にもう一度、挑戦してみようと思った。私は、心の琴線にひかかった本をとりあえず買う。買ったはいいものの、そのまま本棚に並べている本もあれば、ちょっと読んで、まだ、読む時期じゃなかったと、本棚に戻す本もある。『かなわない』もそんな本。そんな本の何冊かが、今回の『読書の日記』を読んだことで、読みたい気持ちが再燃するなんておもしろい。

 

『読書の日記』は、タイトルのとおり、読書に関する記載が半分かそれ以上を占めているのだが、私は、読書以外の日常の記録にこそ、この本の魅力があるのではないかと思っている。

 

ライフをうまく積み上げられない。阿久津隆『読書の日々』

 

僕は自分ひとりを食べさせ養うだけでもギリギリなのに、と思うとなんか頭がくらくらしてくる。阿久津隆『読書の日々』

 

こんなマイナスのことがそのまま書かれているから、なおのこと私は引き込まれる。今日の締めくくりも『読書の日記』を読みながら、寝るとしよう。

 

読書の日記

読書の日記