どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

時は満ちた

 鹿児島空港に到着して、ゲートを歩いていると、「ようこそ鹿児島」という文字が目に入った。その言葉は、どの土地でも、よく見かけるもののはずなのに、「ようこそ鹿児島」という文字だけで、高揚感が半端ない、と感情が込み上げ、Instagramを開くと、誠一朗さんからも、ウェルカム!と入っていた。

 リムジンバスに乗車して、イリナ・グリゴレ『優しい地獄』を開いて、数行読んで、本を読んでいる場合ではない、と本を閉じ、バスの窓から外を眺めることにした。バスが走るのは高速道路で、その景色は、北海道と、さほど変わらなかったのだが、私は、ずっと外を眺めていた。

 鹿児島中央駅でバスを降りると、若き薩摩の群像の銅像が目に入り、この銅像を私は見たことがある、と奥の奥にあった記憶が一瞬蘇ったのだが、それ以上の記憶は蘇らないまま、20代の頃に歩いたかもしれないアーケード街を歩き、ホテルに向かった。

 あらかじめ郵送しておいたダンボールを受け取り、誠一朗さんに連絡をして、外で誠一朗さんが迎えに来てくれるのを待った。アーケード街の裏道には、おもしろそうな、おいしそうな店が軒を連ねていた。

 Instagramで見たオレンジ色のバイクに跨る誠一朗さんが目に入って、私は、手を振り合図を送り、誠一朗さんも、手を挙げ、私たちは2007年以来となる18年ぶり2回目の再会を果たしたのである。

 私たちはバイクに跨り、背中越しに、誠一朗さんと会話を交わしながら、山下タイガーTシャツ展の会場であるコーヒーイノベートに向かった。

 コーヒーイノベートの店主であるケンゾーさんや、コーヒーイノベートに来ていたお客さんたちに、「はじめまして、齊藤花火です」と帽子を取り、礼をして、そこに一人、少年がいて、おっ、君がサンゴくんか、サンゴくんにお土産があるよ、とダンボール箱を開けた。お土産を買う時に、誠一朗さんの子どもたちのことが頭の中に浮かんで、北海道のお土産として、最初に出会うのは、王道中の王道である白い恋人が良いと思って買ったのだった。サンゴくんは、お礼を言い、包装紙を開け、コーヒーイノベートにいた人たち(私も含め)一人ひとりに、白い恋人を手渡して歩いた。

 齊藤花火です、と自己紹介をすることは今回が初めてのことで、花火さんと呼ばれることも初めてのことだった。何やら、齊藤花火になった感がある。会場に来ていた占わない師という方に、誠一朗さんと呼んでいるんですね、と不思議そうな顔で訊かれたので、えっ、何て呼んでるんですか?冗談ですか?と訊くと、冗談さんか、山下さんと呼んでいるとのことで、そうなんですね、人の呼び方って、その人との出会った年代がわかりますよね、と返した。花火という名前は気に入っているのだが、まだ、こそばゆくて、誠一朗さんからは、楽さんと呼ばれる方がまだしっくりくるし、新潟のN7で出会った人たちには、これからも塾長と呼んでもらいたい。それなら、なぜ名前を変えたんだとは思うが、花火という名前は、多分、一回、聞いたら忘れることはなく、それは自宅に帰ってから、もしかしたら私の名前を検索し、このブログだったり、SNSを発見するかもしれないと思うのである。

 今回、楽しみにしていた一つが、山下冗談のポッドキャストの収録だった。誠一朗さんから、ポッドキャスト、録る可能性もあるな。これは体調と湿気と気分に委ねることにするが、頭のどこかで転がしておいて、と鹿児島行きを決めた時に、誠一朗さんから送られてきたメッセージで、私は、シャドウピッチングをしておきます、と返したのだが、送った後に、私は投手ではなく、打者だった、打者であれば、ここは素振りだった、と思いながらも、誠一朗さんからは、ブルペンの全員が驚愕するほどの温め方をお願いします、と返ってきたので、やばい。緊張してきて、力が入りすぎ、ファーボールを連発しそう、結果、何も使われないという事態は避けたい、と返した。あるからね。過去に何度も、「結局使えない」笑、その時のやりとりは、そんな感じで終わるのだが、私は、一人、シャドウピッチングをしている時にも、これはシャドウピッチングをしていること事態が間違っているのではないか。これまでも、これを話そう、あれを話そうと思って、臨み、成功したためしがないではないか、イメージトレーニングが逆効果になる、と当日を迎えたのだが、マイクの前でも、私はマイクを意識することなく、収録している意識すらなく、珍しく、良い塩梅で、自然体でいられたのである。いつもは一人反省会をするのだが、そんな反省会をすることもなかったのは珍しい。これで、お蔵入りすることになったら、なったで仕方がないと思うが、アップされるのが楽しみで仕方がない。頼むから、使ってくれ、と願わずにはいられない。こに来て、また一つ、やってみたいことが実現したことになる。ただ、よく言われるように、自分の声が自分で聞いている声と違って、恥ずかしくなり、聴けないと思うのかもしれないが。ただ、ラジオの最後に発する齊藤花火さんでした、ありがとうございました、というくだりは、何度も聴くだろう。あれが一番、やりたかった。

 『にゃあ』が完成した時も、7月に新潟で何十年ぶりかに再会した時も、そして、誠一朗さんと再会している今も、今だったな、と思うのである。そう思うのは、それぞれで理由は違うのだが、誠一朗さんとの再会で言えば、18年前、瑞穂さんと誠一朗さんの2人と出会って、それまで私のこんな人になりたいという人は、テレビだったり、本だったりの世界にいる人だけだったのだが、有名人だけではなくても、かっこいい人は、いるんだということが嬉しくて、私も、そんな人間になりたいと思って、この18年の時を過ごしてきて、今、自然体でいられ、自分の言葉で語ることができているのは、18年前に憧れた人たちに少しは近づけたのかもしれないと思うところがあるのではないかと思っているし、時は満ちた、と思うのである。

 ポッドキャストの収録は2時間を超えていて、私たちは、昼食も食べず、話続けていて、この日記を書いている今、その時、誠一朗さんが話していたいくつかの言葉が余韻のように残っているのだが、もしかしたら編集の段階で、カットされるかもしれないし、ポッドキャストを収録していない時に話した可能性もあるので、すでに日記が2500文字を過ぎてはいるが、残しておきたい話があり、それは、ブログで読んでいる私の印象と直接、会い、話している印象にギャップがあると誠一朗さんは、何度か言っていて、その理由が、私は全くもってわからないのだが、それに近い言葉は、他の人からも言われたことがある。まずは、どういう人かを知ってもらった方が良い、という言葉だったりするのだが、ただ、文学フリマの一瞬で、それができるような気がせず、だって、私は、文学フリマ札幌の時は、会話という会話ができなかったから。

 文学フリマ札幌と同じように、山下タイガーTシャツ展においても、3冊の本を買っていただいた。東京では1冊。

 鹿児島は台風15号の接近に伴い、雨が降っている。誠一朗さんは、今日の夜から、タイへ10泊の出張へ行くという。帰りの飛行機の搭乗時刻となったので、私は日記を書く手を一旦、止めて、飛行機に乗車し、イリナ・グリゴレ『優しい地獄』を開いた。優しい地獄というタイトルが良いな、と思っていたのだが、帯にそのタイトルになった物語が綴られていた。

 五歳の娘は寝る前にダンテ『神曲』の地獄の話を聞いてこう言った。「でも、今は優しい地獄もある、好きなものを買えるし好きなものも食べられる」。彼女が資本主義の皮肉を五歳という年齢で口にしたことにびっくりした。

 サンゴくんは、十歳と言っていただろうか。友達になる前の微妙な距離感、緊張感は、マンガの話をして一気に縮まった。好きなマンガの話になり、『ONE PIECE』の話になって、『ONE PIECE』で誰が好き?と訊くと、間髪入れず、サンジとサンゴくんは答えた。なんでサンジなの?と訊くと、女の子に優しいから、とこれまた間髪入れずに答える。将来が楽しみだな、と思いながら、かっこいいよね、サンジ、と言うと、ボンクレーも好きとサンゴくんは言っていた。見た目ではないキャラに惹かれるのも素敵だな、と思った。俺は、おでん、と答えた。

 コーヒーイノベートの閉店の時間となり、誠一朗さん、ケンゾーさん、サンゴくんと4人でスリランカカレーを食べ、ビルの屋上で話の続きをした。あそこが、西郷隆盛が最後、自決した場所です、と誠一朗さんが指差した場所は、遠目からでも立派な建物に見えた。誠一朗さんが一泊じゃ足りない、と言っている言葉を嬉しい気持ちで黙って聞いた。

 鹿児島行き成田空港行きの飛行機は台風15号の影響を受けることなく、無事に飛び立ち、私は、イリナ・グリゴレ『優しい地獄』を読んだり、眠ったりして、機内で過ごし、三度目の成田空港での昼食だな、と思いながらエスカレーターを下っていると、前の女性が、振り返って、ここは成田ですか?と訊いてきたので、成田です、と答えながら、まるで、この列車は、どこどこに行きますか?というような感じで訊くな、と思ったが、こう書いていると、成田なのか、羽田なのかということだったのかもしれなかった。それならわかる。

 私は昼食を何にしようか、と成田空港第3ターミナルを歩きながら、ケンゾーさんが、誰にでも乞食の時代ってあるじゃないですか、と言っていた場面を思い出し、その時は、誰にでもないですよ、と苦笑いを浮かべたのだが、私もあったな、と思った。誠一朗さんやケンゾーさんの家がない状態で、綺麗な女性が、うちに来る?と言ってきたり、マックで寝ていたら、知らない人が声をかけてくれたりというようなドラマチックなものではないが、確かに、私も住む家がなくなったことがある。

 それは大学を卒業した時で、私は、就職が決まっておらず、実家には帰らないということだけを決めたのだが、それまで住んでいたアパートから退去せよ、と言われ、住む家がなく、大学の友人が、研修で東京に行き、当分の間、自宅を空けることになるので、亀の世話をしてくれると、俺も助かるということで、その友人の家に1ヶ月ほど居候をさせてもらったことがあった、と思い出した。私は、居候と呼んでいたので、乞食だったり、ホームレスの時代と話を訊いていても、私にはない、と思っていたのだが、ホームレスといえばホームレスだったが、 誠一朗さんの話を思い出せば、公園のベンチで寝ていた日もあったと言っていたので、私も福岡の公園で眠ったことはあるが、私がしたそれとは、やはり違うのかもしれない。

 ふと、時計に目をやると、14時25分になっており、やばい、と161番ゲートに走った。