葛西由香個展『遠い場所から手を振り合う』のギャラリーの外のロビーには展覧会の内容に合わせた本が置いてあり、その一つが『何者からかの手紙』だった。私もいくつかの『何者からかの手紙』を読んだことがある。また、ミヒャエル・エンデ『ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと』も置いてあり、読んでみたいと思ったので、読むことにした。ミヒャエル・エンデという名前をどこかで聞いたことがある、と思いながら、開いたのだが、第一章が、「書くということ」というタイトルで、タイトルからして読みたくなる、と思いながら読み進めた。読んですぐ、ミヒャエル・エンデが『モモ』の著者だと知り、そうか、『モモ』で、知ったのかと思ったが、私は、いつか読みたいと思ってはいるが、『モモ』は読んでいなかった。
エンデ文学には、常にあたたかいユーモアが底辺に流れている気がする、と書かれているのを読み、そうだよな、ユーモアは私も大切にしたいと思いながら読んでいると、エンデが語る人間という不完全な生き物が、神という絶対者の前に立ち、自分が不完全なことに絶望せずに、それが人間なんだとあたたかく、おおらかに微笑む態度だとエンデは言う。エンデ文学を多くの読者が愛するのは、この誠実さとユーモアがその魅力となっているに違いない。そして誠実さとユーモアは「遊び」の要素とも言える、と書かれており、うわあ、と思いながら、ただ、すぐに理解できないので、何度か同じ箇所を読んだ。
私が20代の頃は、どこか訓示のようで、どこか押しつけがましい言葉を綴っていた。今は、ユーモアというか、おかしさだったり、弱さだったり、誠実さだったり、時々、まじめなことだったり、書きながら考えたことだったりを書きたいと思ってる。
・・・。ユーモアとはおふざけではないし、おふざけや陽気さの一種でもない。ユーモアとはひとつの世界観なのだということをしめそうとしたのです。この世界観は、実は挫折が避け得ないと知っていることから生まれるのです。
ミヒャエル・エンデ『ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと』p31
・・・。ユーモアは、いつも、ある善意のおおらかさと結びついているからです。なぜなら、ユーモアは、人間に弱みがあってはならないとは絶対思わないからです。その逆で、実は、ユーモアは、どちらかといえば、人間には間違いがあるからこそ愛すべき存在なのだとの意見なのです。間違いがあるにも関わらず、ではありません。
ミヒャエル・エンデ『ものがたりの余白 エンデが最後に話したこと』p39
私は、ユーモアについてを考え、読みながら、葛西由香さんの描くユーモアが浮かんだ。なるほど、と思う部分があるが私は、ユーモアをまだ感覚的にしか捉えられていない。
