私とほぼ同じ頻度、ほぼ同じ時間にコメダを訪れる年配の男性がいるのだが、当然、お客さん同士なので、会話を交わすこともなく、顔だけ、知っている関係で、名前も、職業も、家族構成もわからない。今日は、来ていないな、と思うだけである。こうも、しょっちゅうコメダに来ていると、あの人は、今日も来ているとか、あの人は、あの席が好きとかがわかってくる。それぞれ所定の席というものがある。私も含めて。同じ席に座るのは、人間の習性なのだろうか。いや、選択するという工程がめんどくさいだけなのかもしれない。私は、コメダで会計を済ませながら、お店側の店員も、お客さんの名前も職業もわからないが、顔は覚えているわけで、今日は、あの人が来なかったとか、ある日を境に、あれ、最近、あのお客さんが来なくなったということを繰り返すわけで、私が、コメダの店員だと想像すると、どうしたんだろう、と気になるし、できることなら来れなくなる理由を知りたいと思う。転勤する時の挨拶回りのように、このたびは、引っ越しをすることになりまして、長い間お世話になりました、とコメダの店長に挨拶をしたい。覚えていたら、そうしよう。別れの理由もわからないまま、連絡手段がなくなる人間関係というのは他にあるのだろうか。
私は、結構な頻度で、コメダでアイスコーヒーを飲みながら、日記を書き、思索に耽るのだが、最近は、コミュニケーションについて考えている。なんでわからないの?という場合、他者の思考回路を考え、知る必要があるよな、と思った。なんだっけ?内在的論理というんだっけか。伝えようとする気持ちや、こうしたいという気持ちが強すぎると、大抵、うまく行かない。年齢を重ねて、そういう機会が減った気がして、なんで何だろうと考えると、それは、他者が、自分の意見を押し通そうとする人がいないからコミュニケーションを取りやすいのかもしれないと思ったり、私自身も、こうあらねばならないと余裕がない状態ではなく、余白があるからなのかもしれないと思いながら、あっ、ここでも余白か、と思った。コミュニケーションの中での受け止め側。コミュニケーションを細分化していくと、発信する側と受けとる側を繰り返すわけで、では発信する側で必要なことを考えると、自分のことばかり話さないということかもしれない。結局、伝えよう、伝えようとする気持ちが強いと、うまくいかないのだろう。雑談が大切だと思うと話していた人が二人いて、雑談は、遊びであり、余白みたいなもんだなと思うのである。雑談があるから、本来、伝えたいことだったり、聞きたいことがスムーズにいくような気もする。なんか、一般論のようなことを書いちゃってるなあ、もっと、コミュニケーションについて深めたい。