どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

真実と事実の違いについて

 感情と事実を分けて考えたほうが良いというような言葉を耳にしてから、もっと理解したくて、友人に、妻に、話をしたのだが、妻が、真実と事実は違うって話だねと言い、これを観るとわかりやすいから観てみて、とドラマ『ミステリと言う勿れ』のある場面を再生してくれた。

 そのあと、ネットで、真実と事実の言葉の意味を調べたところによると、「真実」は、「本当の」と言う意味がる「真」と、「本当、ありのまま」という意味がある「実」から成り立ち、「嘘偽りがないこと」「本当のこと」と言う意味がある。『ミステリと言う勿れ』では、真実は一つではない、と久能整が言うのである。真実には、主観が存在し、それぞれの主観で語る真実は、それぞれにとっては、真実ではあるが、それぞれが語る物語には齟齬が生まれるというのである。一方、「事実」は一つ。「事実」とは、「実際に起こったこと」という意味がある言葉であり、実際に起こった事柄を指す言葉。つまり、「事実」は誰が見ても同じなので「語る」ものだが、「真実」は人の心の持ちようによって異なるため「明かす」ものという点で、「真実」と「事実」の大きな違いがある。

 これって、以前読んだ田房永子『喫茶 行動と人格』と同じことではないか、行動は事実、人格は真実と読み替えられるのではないか。マンガにも同じようなことが描かれていたような気がする。

 で、私は、西田幾多郎『100分de名著 善の研究』を読み始めたのだが、この本にも近いことが書かれていた。西田幾多郎にとっての「知識」とは情報としての知識とは違って、頭と身体の両方で知ることを指し、知は頭、識は身体全体を意味している。そして哲学にとって、もう一つ大切なことは、「情意」だともいう。「情」は、私たちの「こころ」の働き。情意とは、容易に言語化できない「おもい」だと考えても良い。世界は「あたま」だけで認識されるのではなく、つねに「こころ」のはたらきがある。「認知」は、科学的に、客観的に、あるいは再現可能に理解することで、「認識」は、個々の人間が、それまでの経験を踏み台にして、心身の両面で理解を深めていくこと。西田幾多郎が強調しているのは、人が、同じことを認知しながら、個々別々の世界を認識し、生きているということ。さらに言えば、世界は一つである一方で、100人いれば100通りの世界がある。それが、この世界の現実だという。ただ、注意しなければならないのは、西田幾多郎が、個々別々の世界を生きることを強調しているだけではなく、現象的には無数の世界がありながら、実在的には一なる世界であることも注意を促している。それは、人間は無数に存在しながら、同時に人類という一なる存在でもあることと同質である。同じ人間は存在しない、という真理があり、すべての人間は人類である、という真理がある。現実の世界では、別々なものも、実在の世界においては「一なるもの」だという。

 社会が、世界が、複雑に感じるのは、感情が、心があるからか。

 

 

批判する側ではなく、批判される側に身を置くかっこよさ

 いつもは日本の敗戦とともにWBCを観なくなるのだが、ベネズエラ対イタリア戦の試合結果が気になり、NETFLIXで観戦した。ただ、試合時間が長いため、途中で観るのを辞め、ネットで試合結果を確認すると、4対2でベネズエラが勝利したことを知った。どうせなら、ベネズエラに優勝してもらいたい。優勝するような国に負けたのなら仕方ない、と思えるから。

 毎度のことながら、日本の敗戦とともに誹謗中傷が流れることに、アホが!と思う。テレビの前で管を巻いていているのとは違うだろ、と思うが、これも注目されている証なのか。

 伊藤大海が一面のスポーツ新聞を手に取り読んだ。良い記事だった。球団フロントが空港まで迎えに来てくれて、ファイターズに入ることができて良かったと伊藤大海は思ったという。また、伊藤大海は、こういう結果になった以上、誰かしらこういう立場になっていたと思う。それが僕でよかったかなと思います、と話したという。新庄監督も、僕と伊藤君は(アンチから)言われるタイプなんで(笑い)と言い切ったという。

 批判する側ではなく、批判される側に身を置こう、と時々、自分自身に言い聞かせているが、こういう記事を読むと改めて、批判される側に身を置いている人は、かっこいいと思うし、今シーズンの伊藤大海を応援しようと思う。この新聞記事を読み、私みたいに思った北海道のファンは多いだろう。というか、イチローも、松井も、大谷でさえも、そんな向い風を耐え忍び、手のひらを返すように、称賛される経験もしているわけで、アンチがいることが、一流なのかもしれないとさえ思えてきた。

 『NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝』を読んでいる。つい最近、「初心忘るべからず」という言葉が、世阿弥が言った言葉だということを知ったのだが、本著を読みながら、世阿弥がいう初心忘るべからずというのは、最初の志に限らず、人生の中でいくつもの初心があると言っていることを初めて知った。最初の初心が24〜5歳で、2回目の初心が34〜5歳、3回目の初心が50歳すぎ。24〜5歳で、名人に勝ったりもするが、それは一時的な、時分の花であり、調子をこくな、と言っており、34〜5歳で、これまでの人生を振り返り、今後の進む道を考える時である。およそ見えてきた自分のポジションを把握し、その上でどう生きるかを考える。それが大事なことだと世阿弥は言っている。老いてのちの初心というのは、若いころの気持ちに戻ったり、若い頃と同じことをしようとしたりするのではなく、あくまでも今の自分の限界の中で何をしていったらもっともよいかを考えることが必要だと説く。言わんとしていることはわかるが、ではどう生きるのが良いかはわからない。

 

 

My name is Cc.

 この日記を書いている現在は、グアム上空らしい。成田国際空港までの所要時間は3時間19分。ブリスベン空港を出発し4時間48分が経過している。オイデル・ヘイゲル『弓と禅』を読んでは、寝て、読んでは、寝てを繰り返しているが、すでに機内で過ごすことに飽きた。成田国際空港に着いたらラーメンを食べよう。絶対。

 昨日は、午前中に、HOTA(Home of Arts)を訪れた。日本人の作品があった。「Happy birthday2U2 by Hikoko Ito」。同じ誕生日の人にメッセージを送るという作品で、スタッフ声をかけてもらって、その意味を知り、私は、テーブルに備え付けられていた誕生日カードにメッセージを書いて、誕生日のボックスを探した。そのボックスは、数字ではなく、オーストラリア先住民のアート記号らしく、自分の誕生日の記号と、ボックスの記号を突合させる作業も面白い。そのボックスにあったいくつもの誕生日カードから一通の誕生日カードを手に取った。受け取った誕生日カードは、中国人からのものであり、大学はオーストラリアに留学したいという旨のメッセージが書かれていた。全て英語だったのだが、私は流暢な英語を書くこともできないので日本語で書いておいてきた。

HOTA

 

Happy birthday2U2 by Hikoko Ito

 HOTAのあとは19 Karen Contemporary Artspaceというギャラリーを訪れた。見応えがあり、私は、翻訳ソフトで、オーナーに見応えがあったと伝えた。オーナーは笑顔だった。Instagramをしているようだったので、フォローをし、どんなギャラリーかをホームページを訪れ、確認した。そういえば、オーストラリアで訪れた美術館、ギャラリーは全て無料で観ることができた。

 

19 Karen Contemporary Artspace

 

 一旦、友人宅に戻り、友人の息子さんたちが、学校から帰ってきて、終業式だったらしく通知表を見せてくれたりしたあとは、一緒に昼食を摂った。昼食は手作りのハンバーガー。お店で食べるくらいおいしくて、たまあに、こうしてハンバーガーを食べるのだ、と言っていた。

 ショッピングモールで車を停め、トラムという路面電車に乗って、スカイポイントに向かう。なんと説明すれば良いのだろう。スカイツリーから東京を一望するみたいな感じだ。スカイポイントで、眼下にはサーファーズパラダイスが広がっていた。友人の夫であるオーストラリア人もおすすめはビーチだと言っていたが、おすすめはサーファーズパラダイスではない、と初日に言っていた。ゴールドコーストは、海沿いに町が発展してきた歴史もあるようだった。なぜ、そんなに海が好きなのか。

 自宅に帰ってきて、夕食のラザニアを作ってもらい食べ、友人の息子さんたちと、Nintendo Switchをして最終日の夜は更けて行った。

 友人家族は、早朝にもかかわらず全員で空港まで見送りをしてくれた。数年に一度、日本で会うのだが、こうして3泊4日をホームステイのような形で、子どもたちと過ごすと、子どもたちの性格もわかってきて、また、会うのが楽しみになってきて嬉しい。小学生のうちだから日本に一緒に来るのだろうか。

 

 

台湾まぜそば

 パンを買った帰りに、コンビニに寄り、スポーツ新聞二紙を購入し、自宅に帰ってきて朝食。二紙ともに表紙は鈴木誠也だった。鈴木誠也は、韓国戦、二本の本塁打を放った。WBC初優勝を果たした第一回大会。日本はスモールベースボールを掲げた。スモールベースボールはスモールベースボールで良かったが、今大会の日本の打線は、初回に三点差を先制されたが返してくれるという期待感、安心感がある。

 ネットフリックスで、チャイニーズ・タイペイ対韓国戦を流した。東京ドームは、ほぼ満員で、この日のために、チャイニーズ・タイペイ、韓国からファンが訪れているのだろうか。それとも日本人が多いのだろうか。そういえば昼食は、台湾まぜそばを食べたのだが、ここではどうでも良い話だ。

 日本対韓国戦と同じく、チャイニーズ・タイペイ対韓国戦も行き詰まる試合展開で、逆転につぐ逆転で、試合は終盤を迎えている。チャイニーズ・タイペイは、この試合負ければ一次ラウンド敗退が決定してしまう試合で、チャイニーズ・タイペイが勝てば、日本の一次ラウンド突破が決定する試合のようだ。動画の終了時間は、まだあるので、これはタイブレークに突入しそうだなと思いながら、時計を確認すると、18時30分で、日本対オーストラリアは、何時から試合なのだろうか、とネット検索すると、「WBC侍Jの準々決勝進出決定」とネットニュースの文字が目に入り、げんなりした。ということは、台湾が勝つのか。まずい。日本対オーストラリア戦がLIVEで始まる時間だ。チャイニーズ・タイペイ対韓国戦を一時停止をし、日本対オーストラリア戦の中継を観ることにした。

 

 

不完全な美

 茶道か華道を習ってみたいと、昔、思ったのだが、思っただけで行動に起こすことはせず、妻は少しばかり行動を起こし、岡倉覚三『茶の本』を買った。なぜ、妻は読もうと思ったのだろうか。少し読み、難しい、と言って読むのを辞め、自宅の本棚に置いてあったので、私は、ここのところ日本人の美意識について知りたかったので、岡倉覚三『茶の本』を開くことにした。

 日本では、一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進め、茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝することにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。と書かれており、こう書いていると、日本人が、「不完全なもの」に美を見出したのは、人生と重ね合わせていたのか、と朧げに思ったのだった。審美的とは、どのようなことを言うのだろうか。ネットで検索すると、美の価値を重要視し、美しいものとそうでないものを見極め、追求する様子と書かれており、「道」とつく、茶道、華道、武道なんかは、共通して、美を追求するところにあるのではないだろうか、と思いながら、なぜ、何かを追求すると、美に行き着くのだろう、世阿弥がいう「花」も、「美」のことを言っているのではないだろうか。だから、花を一言で言い表すことができず、それは美しいと言う感覚的なものであるのだから。

 第一章を読み終わり、表紙を読んだ。交際の礼法をきわめるのが茶道で、この本は、そうした「茶」を西洋人に理解させるために英文で書いたもので、単なる概説書ではなく、日本に関する独自の文明論というべき名著と書かれていて、英文で書いたものだったんだ、と驚いた。なぜ、驚いたかというと、第一章を読むと、西洋を批判しているからで、西洋から見て、日本が野蛮国と言うが、文明国たるためには、戦争の名誉によるものであるならば、むしろいつまでも、野蛮国に甘んじよう、われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで持とう、と書かれていた。『茶の本』が書かれた時代が気になった。調べると、1906年で、1906年は、どんな年だったかを調べると、日本が日露戦争の勝利を経て、列強の仲間入りを果たし、帝国主義的な拡大政策を本格化させた時代ということがわかった。この時代に、茶を通して、平和を訴えるって、すごいことなのではないだろうか。日本ではどのように受け止められたのだろう。

 一年間、ただただ本を読んで過ごしたいと思ったり、大学院に行くのも良いなと思ったことがあるけれど、ふと、茶道や華道や書道を学び、本を読み過ごすのも良いなと思いじめている。と思う一方で、やはり日常的な瑣末なことを繰り返すなかで、学び続けることが必要な気もしないでもない。

 

 

日本人の美意識

 日本人は、そもそもある特定の宗教を信仰せずとも、生活の中に宗教が浸透しているのではないか。日本人は諸外国から比べても道徳的。日本人はマナーが良いと言い換えられる。もっと言えば、諸外国は、宗教で縛りつけないと、倫理的、道徳的に生きられないのではないか、と海外に住んだ経験がある友人は言っていて、もはや宗教は、法律のようなものだな、守らなければ罰せられるのと同じだな、と思いながら聞いた。

 日本人は世間体を気にし、だから、倫理的、道徳的なのだ、と言う話を聞いたことがあるが、その村社会って、日本に限った話ではなく、人間は社会的な生き物であり、集落を作ってきたのであれば、条件は同じなわけで、では、なぜ?となってわからなくなった。狩猟民族、農耕民族の違いも関係するのだろうか。

 同じ日本人の中でも、当然のように倫理観には違いがあって、では倫理観を育むにはどうしたら良いのだろうか?と考えると、またわからなくなったのだが、今、思うのは、こんな人になりたい、と思う人に出会ったかどうかなのだろうか?それは、大人になってからでも可能なのだろうか?

 ともあれ、私は、日本人の美意識に興味がわき、世阿弥 岡田利規訳『風姿花伝・三道』を読むことにした。三道を目にするたびに、なぜか三木道三が頭を過った。

 「初心忘るべからず」と言う言葉を言ったのが世阿弥だったというのを今更ながら知り、ネットで検索すると、『花鏡』に記された教えとあり、世阿弥は『風姿花伝』だけではないのかと思いながら、検索した文字を読むと、始めた頃の真剣・謙虚な心を忘れるなということが書かれていた。

 世阿弥に興味が湧いたのは、時分の花、真の花についての考え方で、花ってなんだろう、と考えながら読んだのだが、私がその意を理解できなかったのか、私の解釈では、花と言っても一言では言えない。それは、能を極めたもののみぞ知る、と書いているように思ったんだけど、それって、禅も同じだ、と思った。

 私は、ある人に尊敬する人は誰ですか、それはなぜかと聞いたことがあり、その人は、花があると尊敬する人を称しており、どういうところに花があると感じるのか、と尋ねたことがあるのだが、その人は、うまく言葉にできないと言うのである。つまり、それは、能だけの世界に限ったことではなく、現在にも残る感覚なわけで、その人が感じた花があるというのは、世阿弥でいうところの真の花だな、と今はそう思うのだが、真の花に近づくためには、心のあり様が必要なのではないか。初心忘るべからずというのも、心のあり様のことを言っているわけだし。

 もっと、世阿弥の考え方を知りたい、と思ったので、今度は100分de名著を読もう。あと、鈴木大拙だったり、西田幾多郎についても深めたい。

 

熱量問題

 先輩職員の熱量で仕事ができない。熱量がないと組織にいてはいけないと感じるという言葉を何人かに聞いたことがあり、熱量って合わせる必要があるの?と思ったし、個人でも熱量って、その時々で変わらなくない?と思っていたので、言っている意味がわからないなあ、と頭の片隅にその言葉が居座り続け、時々、頭を掠めていたのだが、そうか、時間の蓄積が違うからか、と思うに至った。

 具体的には、その事業を軌道に乗せてきたものと、軌道に乗った状態で合流したものとでは、当然、熱量が変わるし、事業を軌道に乗せたものは、使命ともいうべきものを感じているから、個人のモチベーションとは関係のないところで、維持されるのではないかとなって、じゃあどうすれば良いのかを考えた時、その時間の蓄積である歴史を知る必要があるのではないか、となった。なぜ、その大切だと思う考え方が出来上がってきたかを追うのである。歴史という線で捉えた時に、現在、その人が言っている言葉も、そりゃあ、そういう思考になるよね、と私は、歴史を辿ることによって、腑に落ちる感覚を得た。 

 時間や歴史の重要性について考えていて、確かに時間は必須条件ではあるけれど、時間だけなのか?と考え始め、家族も代えが効かない存在だよな、と家族のことに思考を巡らし、家族が代えが効かないのは、どこにあるのかと考えると、絶対的信頼感があるというか、それは極端に言えば、命を賭してくれるみたいなものではないかとなった。家事なんかの家族の機能は、その代替が効くけど、代えが効かないのは、精神性にあるのではないか。精神性という言葉が合っているかはわからないが。

 『奇奇怪怪』を二度、聴き直していたところで、逃げないやつという表現をしていたのだが、仕事に置き換えると、逃げないやつだ、そうだ、となって、言葉を変えると責任感になるのかもしれないな、となって、信頼関係の積み重ねが大切なのではないだろうか。何の話をしてるんだっけ?そうだ。駒からの代えの効かない存在になるには何が必要かということを考えていたんだった。代えの効かない存在というのは、家族だけに留まらないな、となり、何人かの顔が浮かだ。なぜ、代えの効かない存在になったのか。その人の考え方だったり、大切にしていること、一言でいえば、人となりが好きだなと思ったからで、その人となりが伝わるに値する時間を共に過ごしたからなのだろう。いや、人となりだけではないか、やはり、そこには信頼関係が築ける時間があったのか。

 そんなことを考えながら、山口周『自由になるための技術 リベラルアーツ』を読んでいたのだが、そこに、 

 

人となりがいちばんわかるのは、その人は何がものすごく好きなのか、何に特別なこだわりを持っているのか、何にいちばん時間をかけてきたのか、あるいは逆に何がものすごく嫌いなのか、何にいちばん腹を立てるのか。そうした喜怒哀楽、つまりその人の心・感情が強く動かされる部分だと思います。

山口周『自由になるための技術 リベラルアーツ』p24-25

 

 

 と、書かれていて、なるほどね。人となりを知るには、喜怒哀楽を聞けば良いのね、今度、面接で意識しようと思ったのだが、家族に話を戻すと、人となりが好きというのとは関係なく、家族は自分の選択とは関係のない偶然性において、存在しており、それでもなおかつ、絶対的信頼感を感じるのは、なぜなのだろう。喜怒哀楽を共にしているからだろうか。確実に、そこには、時間の蓄積が欠かさせない気もしてきた。