どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

喪失と回復

 その人が置かれている状況を、いかに自分ごととして考えることができるか。そんなことを時々、考えてきた。誰かに起こることは、自分にも起こり得る。そう、自分に言い聞かせてきた。

 生活の批評誌第1号を読みながら、よくはわからないが、何か大事なことを言っているかもしれないと思った。 

アイデンティティとは、自分の属性のことだ。このアイディンティティというものに訴えてくるからこそ、人間は長い間、強く連帯することができる。たとえば、黒人の公民権運動などは、黒人にとって「これは私の問題だ!」と思えたからこそ、長く闘い効果を収め、いまも闘いうるのだ。そして、東は、新たなアイデンティティが必要だという。東はそのひとつとして「家族」を持ち出す。生活の批評誌第1号p31

・・・他人の苦しみを想像し「われわれの一員」にするというよりも、「欠けたもの」を相互に回復するための連帯であった。それが『この世界の片隅に』が描いた連帯のかたちであり、子どもを家族に迎え入れるための論理である。東は家族を一つの運動とみている。「ある子どもが偶然に生まれ、偶然で死ぬ。そして、また新しい子どもが偶然で生まれ、いつの間にか必然の存在へと変わっていく・・・。『中略』・・・僕は、一般にその運動を家族と呼んでいる」(『観光客の哲学』、p298)。同時にまた、家族は「欠けたもの」を回復する運動であるのだ。これは子どもだけではない。自分の祖父母が欠けて、子どもが生まれる。もちろん、祖父母と子は異なる。しかし、次には祖父母となり、自らが親となる。そのような循環で、家族は「欠けたもの」を回復していった。その駆動力になるのは、喪失と回復というお話の法則に則る物語的な愛である。生活の批評誌第1号p39

 わかる。わかると思ったが、この考え方でいくと、私が目指しているところには到達できないような気がした。東浩紀『観光客の哲学』を読んでみようかな。生活の批評誌を読んでいるだけあって、常に生活とは?を考えながら読む。

「生活」とはなんだろうか。毎日呼吸をするとか、生命を維持してゆくことなのだろうか、あるいは「生命ある主体」として能動的になにか活動することなのだろうか。・・・「この世に存在する、死んでいる有機物や無機物ではない生命」を指すばかりでなく、「それらの誕生から死までの期間」、さらには「そのなかでの活動、生き方の様態」までを表してさえいる。・・・「生活」とは、「今まさに生きている」、という主体の生きているその「さま」なのだ。生活の批評誌第1号p61

ただ呼吸をしているだけではなく、家事や、賃金労働や、他者との関わりのなかで生きていくことが「生活」なのであり、その「他者との関わり」のなかに「批評」も位置づけられているといえよう。生活の批評誌第1号p63

 短い期間で見れば、「生活」であり、長い期間で見れば「人生」ということだろうか。