北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

日日是好日

今、読むべき本かもしれないと手に取ったのは、森下典子日日是好日』。なぜ、今、読むべき本かもしれないと思ったかというと、私が、最近、気になっているキーワードである『余白』と茶道がどこかで繋がっているのではないかと思ったからである。

 

(もしかすると、先生は、思っていても、言わないだけなのかもしれない・・・)・・・言えばきっと、言葉の空振りになるのがわかる。思いや感情に言葉が追いつかないのだ。だから無言のまま、わが身と同じ大きさのたぎる思いを、ぐっと飲み込んで、座っているしかなかった。そして、出口のない内なる思いに、少し目頭が暑くなった。森下典子日日是好日』p224

 

言いたいことを言わずに表現したいな、と私は思った。ふと、森下典子日日是好日』のまえがきに映画のことが書かれていたことに気づいてページを捲った。

 

『道』という映画の話。

 

フィリー二の『道』は、見るたびに「別もの」になった。見るたびに深くなっていった。・・・。世の中には、「すぐわかるもの」と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは、フェリーニの『道』のように、何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別もの」に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。「お茶」って、そういうものなのだ。森下典子日日是好日』p5