そういえば、自宅に湊かなえの本があったな、と本棚を眺めた。
『ポイズンドーター・ホーリーマザー』を手に取った。
湊かなえがイヤミスの女王と呼ばれているというのを、Switchインタビューで知った。イヤミスという言葉も初めて訊いた。後味が悪い、嫌な気持ちになるミステリー。
後味が悪いというか、人間の嫌な部分、人に見せない部分に光が当てられる。そして、最後の最後にちゃぶ台をひっくり返されるように物語が終わる。半分くらいまで読んだのだが、私は、『罪深い女』が特におもしろかった。
こんな母親いるかもしれないな、とか、親だけど、どうしても嫌いな親もいて、だけど、子どもの頃は、逃げることができなくて、とか考えると、どこかで同じような気持ちをしている人がいるのだろうな、と思った。家の中はなかなか見えない。大筋の物語にも引き込まれたが、最後の最後の数ページで、ちゃぶ台をひっくり返されたような物語になる。えっ、なんだったの?という感じに。そこが余白なのか。確かに、私が描いている物語と、私の物語に登場する人物は、人物の物語があって、同じ出来事でも、別な内容に変わる。
湊かなえファンは、このちゃぶ台返しのような終わりかたが好きなのだろうか。
本を読んでは、気付いたら昼寝をして、という休日を繰り返す。
3人のアドルフの物語。1人のアドルフとは、アドルフ・ヒットラーである。1人の人間が、ここまで世界を巻き込むというのは、持って生まれた星というか、なんというか。一人を崇拝し、盲信することは、怖いこと。道を踏み外していることすら気づかない場合は、どのように気づけば良いのだろう。人は、見たいものしか見ないというか、見たいようにしかものごとを見ない。
ナチス崩壊後にパレスチナ問題が続くということを手塚治虫『アドルフに告ぐ』を読んで知って、えっ?そうだったの?と自宅にあった山井教雄『まんがパレスチナ問題』を読むことにした。