どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

見えることで使っていない能力があるのではないか?

テレビで、伊藤亜紗さんを見て、この方の感覚は、おもしろいと思った。もっと伊藤亜紗さんの考えていることを知りたいと思って、本を3冊買った。

 

伊藤亜紗さんは美学者で、といっても美学という学問があることも、その時に知るのだが、美学者なのに、障害についての本を何冊か書いている。

 

その1冊、伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んだ。

 

視覚障害者を理解するという本だけど、支援する人と支援される人という関係ではなく、見えることで使っていない能力があるのではないのか?目が見えない人の見ている世界はどんな世界なのか?というフラットというか、そこに健常者と障害者を感じないというか、テレビで見た時も感じたのだが、その感じ方というか、人としてのあり方が素敵だと思った。

 

違いを認めることと、特別視することは違います。・・・「すごい!」という驚嘆の背後には、見えない人を劣った存在とみなす蔑みの目線があることです。「すごい」は単なる「すごい」ではなくて、実は「見えないのにすごい」ということなのです。・・・私たちはつい「見えない人」とひとくくりにしてしまいがちですが、実はその生き方、感覚の使い方は多様なのです。「見えない人は聴覚や触覚がすぐれている」という特別視は、この多様性を覆い隠してしまうことになりかねません。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』p85-87

 

確かに、すごいの裏にある人の心情は、この本で書かれているとおりで、障害の特性という言葉で一括りにしてしまうのも気をつけないといけないと思った。

 

「分かり合えないこと」はもちろん大切なのですが、でも、それは最後でいい。まずは想像力を働かせてみたいのです。・・・そのためにはまず、器官と能力を結びつける発想を捨てなくてはなりません。器官にこだわるかぎり、際立つのは見えない人と見える人の差異ですが、器官から解放されてしまえば、見える人と見えない人のあいだの類似性が見えてきます。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』p85-87

 

「障害者」という言葉の表記についてです。「障害者」という表記に含まれる「害」の字がよろしくないということで、最近は「障碍者」「障がい者」などの別の表記が好まれるようになってきました。・・・「障害」の定義を考慮に入れるのなら、むしろ「障害者」という表記の方が正しい可能性もある。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』p204

 

私も障害を障がいと表記することに対して、どこか違和感を感じていた。ただ、言葉に拘るのなら、そこまで拘らないといけないのかなあとも思っていて、違和感はあるけど、はっきりとした自分の考えみたいなものはなかった。

 

障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。そうした「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」でとらえられた障害であるように見えるからです。むしろ「障害」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか、というのが私の考えです。伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』p211

 

この本で言っているのは、障害は、個人ではなく、社会にあるという社会モデルについて言及していて、であるならば、障害者という言葉は、個人を言っているのではないから、そのままの表記の方が合っているのではないか。なるほど。その考え方は初めてだった。