どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

いじめを考えることは、人生の大切なテーマなのかもしれない

「いじめ」をテーマにした小説は多々ありがますが、一番芯を食った作品だと思います。川上未映子の人間観察力に震えます。『伊野尾書店「夏の100冊』

 

伊野尾書店「夏の100冊」に紹介されている文章を読んで、川上未映子『ヘヴン』を買った。「いじめ」について考えることは、今もあるけれど、「いじめ」をテーマにした小説を、いや、本を読むのは、これが初めてだった。

 

これは小説で、フィクションで、実在しないということはわかっていても、どこかで、今、同じような経験をしている人はいるかもしれないし、いや、たぶん、いて、この物語が、フィクションには感じられなくて、心がざわついて、悲しくなったり、憎しみが湧いたりしながら読んでいる。

 

いじめに遭っている人は、これほどまでに多くの時間に悩まされ、苦しめられているにもかかわらず、いじめをしている側は、学校が終わり、家に帰ったら、そのこと自体も忘れたように過ごしている。そう想像すると怒りがわき、いじめをした人は死刑だな、と極論に達する。いや死刑は反対だから死刑はなしとして、同等の苦しみを味わうべきだとは思う。そこは警察か裁判所だろう。学校ではない。

 

学校に、教師に、全てを任せるのは荷が重いのではないか。どうだろうか。『ヘヴン』には登場しないけれど、仮に学級崩壊のようなことが起きていて、教師が疲弊し、もしかしたら鬱とかになり、休職することになったりしたのを想像すると、それは一人の教師のみというか、一人の大人では対処しきれないのではないか。私には、できそうにもない。教師をしなくて良かったとさえ思う。

 

40人学級というのが、そもそもの問題なのではないかとも思っていて、大学のような授業形態にした方が良いのではないと思っている。人間関係が固定されていないほうが良い。なんなら、オンライン授業を選択できる形でも良い。

 

学校がある意味は?と考えたことがあるけれど、社会性を身につけたり、人とどう関わるかという勉強以外のことを学ぶ場でもあるのが学校だろうけど、その目的が果たせないのなら、学校がある意味はなんなのだろうか?

 

この前、ニュースで、新型コロナウィルスの感染防止の観点からも少人数学級を検討していると言っていたけれど、これだけ、ずっといじめのことが問題になっていて、当然、少人数学級のほうが良いと考えている人もいただろうけれど、それが実現しないのは教師の数の問題なのだろうか。こう書いていて思うのだが、学区自体もやめても良いのではないか。学校自体も固定しない。国語は、A学校に行き、数学は、B学校に行くというような。今のようなカリキュラムではなくて、A学校に行く時は、午前中は国語だけみたいなさ。

 

・・・なぜ僕はこわいんだろう。傷つくことが、こわいということなんだろうか。もしそれが僕にとってこわいことなんだとしたら、恐怖なんだとしたら、なぜ僕はそれを僕のちからで帰ることができないんだろう。そもそも傷つくとはなんだろう。苛められて、暴力をふるわれて、なぜ僕はそのままにそれに従うことしかできないのだろう。従うとはなんなんだろう。僕はなぜこわいのだろう。なぜこわいのだろう。こわいとはいったいなんだろう。そんなことをいくら考えてみても、答えはでるはずもなかった。川上未映子『ヘヴン』p97

 

そういえば、以前、いじめをテーマにした絵本を作ろうと思って、途中まで描いたことがある。描いている途中でその登場人物がかわいそうになってきて、描くのをやめた。その物語をハッピーエンドにするかも想像つかなかったし。じゃあ、なんで描いたのだろう、と思うんだけど、たぶん、その頃からいじめは、私にとって重要なテーマの一つなのかもしれない。死にたいと言っている学生に会ったら、どう声をかけるかということも考えていた。その答えは、今も覚えているのだけど、今は、その言葉はかけない。だから、ここには書かない。

 

『ヘブン』は、どのように物語が展開するのだろう。今、半分を過ぎたところ。

 

いじめに遭っている中学生が2人登場するんだけど、例えば、高校に進学して、一人が高校進学を機に、いじめがなくなるとするとする。もう一人は、高校進学をしてからも、いじめが続いたとする。この2人の関係を想像すると、今の関係を維持するのは難しいのではないか、と思う。だけど、さらに高校を卒業して、社会人になって、ふと、思い出した時に、出会ったりすると、また、新たな関係が結べるような気もする。

 

ということで、続きを読もう。

 

休みの1日目は、こうして、読書をして、部屋掃除はしていないけれど、整体に行き、身体を整えて終わりました。

 

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)