どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

哲学とビジネス

否定的に、批判的に、読書をするのは難しい。メモを取るのは、いつだって、共感した箇所や、大切にしたい言葉。

 

 

人が創造性を発揮してリスクを冒すためには「アメ」も「ムチ」も有効ではなく、挑戦が許される風土が必要。更にそのような風土の中で敢えてリスクを冒すのは「アメ」が欲しいからではなく、「ムチ」が怖いからでもなく、ただ単に「自分がそうしたいから」。どうなんだろう。自分がそうしたいからする仕事というのは、確かにアメもムチもいらない。ただ、自分がそうしたいからとまでいっていない仕事は、どうすればよいのだろうか。やはり、アメやムチが必要なのではないか。その考え方は、そもそも過ちなのだろうか。

 

*****

 

高学歴のエリートが集まり、極めて愚かな意思決定をしたという事例を数多く研究した結果、どんなに個人の知的水準が高くても、同質性の高い人が集まると意思決定の品質は著しく低下してしまう。そこで大切なのは、「悪魔の代弁者」という存在。多数派にあえて批判や反論をする人。興味深い。私に批判的な意見をいう人も、悪魔の代弁者だな、と思うようにすれば、寛容に受け止められる気がする。

 

*****

 

自然淘汰のメカニズムには「エラー」が必須の要素として組み込まれている。なんらかのポジティブなエラーが発生することによって、システムのパフォーマンスが向上する。これまた興味深い。最近、私の組織で起きるケアレスミスも、ダーウィンの考え方からいくと、ポジティブなエラー。

 

*****

 

「どうもやばそうだ」と思ったらさっさと逃げろ。仕事は実際にやってみないとおもしろいか、得意かはわからない。何がしたいのか?などとモジモジ考えていたら、偶然にやってきたはずのチャンスすら逃してしまう恐れがある。大事なのは行き先など決めていないままに、どうも、やばそうだと思ったらさっさと逃げろということ。もっと目を凝らし、耳をすまして周りで何が起きているのかを見極める。危ないと感じるアンテナの感度と逃げる決断をするための勇気を持つ。さっさと逃げろ。良い。

 

*****

 

差別や格差というのは、同質性が高いからこそ生まれる。公正で公平な評価は、本当に望ましいことなのか。仮にそれが実現したときに「あなたは劣っている」と評価される多数の人々は、一体どのようにして自己の存在を肯定的に捉えることができるのか。人事制度のことをよく考えるけど、これまでうけてきた人事制度は、どれもあまり効果がない気がする。ただ、同質性が高いからこそ差別や格差が生まれるというのはどうなのだろうか。当たっているのだろうか。

 

*****

 

理想に囚われて現実を軽視していないか?イデアとは、想像上の理想形ということになる。あるべき姿としての理想形を思い描くことは、戦略を立てる上で重要な起点となるが、そこにこだわりすぎてない物ねだりに陥る危険性も認識しておかなければならない。理想と現実のギャップに人は悩む。だけど、理想があればあったで良いのではないか。問題は、ギャップが生じた時。

 

*****

 

未来はどうなりますか?という問いではなく、未来をどうしたいか?という問いであるべき。未来というものは予測するよりも、むしろそれをビジョンとして思い描くべきもの。研修を依頼しようと思っていて、その人は、10年先の未来を見ていると思ったから。ただ、未来を指し示してもらうのではなく、どうしたいかまで訊く必要があると感じた。