どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

飯場

 猫の仏壇の花を交換し、線香に火をつけて手を合わせた。毎日、一日の終わりに、線香を上げ、一日の報告をおこなう。時に、それは、願いごとになることもあり、神さまみたいだな、と思う。

 

 柿内正午『プルーストを読む生活』に紹介されていた渡辺拓也飯場へ』を開いた。飯場に関する本は、かなり昔に塚田努『だから山谷はやめられねえ』を読んだとき以来だった。『飯場へ』によれば、建設労働者のための作業員寮を指すが、実際には「飯場制度」とでもいうべき、労務手配・労務供給の仕組みである、とある。

 

 なぜ飯場ができたのだろうか?ウィキペディアによると、山間奥地の労働現場では、出稼ぎなどの労働者が泊まり込みで作業に従事することも珍しくなく、このような工事現場では、労働者が宿泊し、食事と休息をとる施設として飯場が建設されたとのことだった。

 

 さらにウィキペディアで、ドヤ街について調べる。ドヤ街は、日雇い労働者が多く住む街のこと。「ドヤ」とは「宿(やど)」の逆さことばであり、旅館業法に基づく簡易宿所が多く立ち並んでいることに起因する。東京の山谷、横浜の寿町、大阪のあいりん地区が有名である。戦後の高度成長期、日雇いの仕事を斡旋する寄せ場に日雇い労働者が多く集まり、彼らが寝泊りする簡易宿所寄せ場の周辺に多く開設されることで、ドヤ街は形成されたとのことだった。

 

 『飯場へ』では、大学院生である著者が、フィールドワークとして釜ヶ崎飯場で働いた日記が、第一章で綴られる。日記という形式だからなのか、すいすい読める。「飯場に入ってみないと、わしらがホームレスをしている理由はわからん」とホームレスに言われたのが、きっかけだった。飯場とホームレスの関係については、著書を読みすすめたらわかるのだろうか。  

 

 

 

行動

 ワクチン接種後、悪寒と倦怠感があり、布団の上で、時に、ソファの上で、横になりながら、柿内正午『プルーストを読む生活』をずっと読んでいた。 

 とにかく過ぎるのは良くない。アレクサンダーはいつでも過剰に極端な人らしかった。極端な人の話はどうしたって面白かった。この本の著者もわりと面白がって書いているように感じられてよかった。この人楽しいでしょ、楽しいね、というような。柿内正午『プルーストを読む生活』p503

  バランス感覚が大切だよね。ただ極端な人にも憧れる。なぜ?思想と行動で違う?思想は、極端にならずバランスを保ち、過剰に極端にというか、徹底的に行動を起こす。

 柿内正午さんは、プルースト失われた時を求めて』を毎日読み、毎日日記を書いてブログで公開し、その書いてきたものを自費出版した。私が手にしている『プルーストを読む生活』は、自費出版したものではなく、H.A.Bから出版されたもので、憧れの保坂和志さんとも対談を果たした。私は、その一連の出来事に、なんというか、勇気をもらえると言うか、羨ましいと言うか、やはり行動を起こすことは尊いと知る。

 柿内正午さんが『失われた時を求めて』を読み終わりそうになった時、なぜか、私も寂しい気持ちになった。感情が紙面を通して、伝搬したようだった。そして、映画のエンドロールを観るように、友田とんさんの解説を読んだ。『プルーストを読む生活』は、友田とん『「百年の孤独」を代わりに読む』、宮沢章夫『時間のかかる読書』から着想を得ている。『プルーストを読む生活』の次は、友田とん『「百年の孤独」を代わりに読む』を読もうと思って、注文したが、まだ届いていない。気分は、『プルーストを読む生活』に関連したものが良くて、考える人のホームページを開き、往復書簡「小説⇄演劇」解体計画 滝口悠生+松原俊太郎を読み、零貨店アカミミのホームページで、柿内正午さんの日記を読む。そして、今は、寺田啓佐『発酵道』を読むことにした。

 

プルーストを読む生活

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夜明け

 秋の匂いだ、そう感じたのは、昨日のこと。昨日のことだけど、書いておきたくて、ここに記す。昨日のことでもう一つ、書いておきたいことは、友人と電話をしたこと。東京から北海道に仕事で出張に来ていた友人。会える距離にいるのに会えない。会えないのなら、せめて電話で話を。お互い話したいことがあって、会話に繋がりが時々、失われる。友人が、最近、おすすめの漫画ある?と訊いてきたので、前にも言ったけど、ONE PIECEと応えたら、ONE PIECEだめだったと返してきたので、そんな悪い気持ちもせず、腕が伸びるのがダメだった?と私は返し、友人は笑った。腹が捩れるとはこのことで、涙を流しながら笑っていたら、発熱している気がして、ワクチンの副反応が出てきた気がするから切るわ、と呆気なく電話を切り、体温を測った。36.3度だった。症状が出る前に、解熱剤を飲んだせいなのか、副反応といえば、腕が痛いくらいで、いまのところ、何もない。といっても、いつ副反応の症状が出るかはわからないので、仕事は休み、ゆっくりとした休日を過ごしている。柿内正午『プルーストを読む生活』を読みながら、このブログを書いている。

 

 『発酵文化人類学』を読んだんだあ。数ページ読んで、合わないかもしれない、と閉じた本だった。柿内正午さんも、文体がだめかもしれないと思った経験をしていて、それでも読んでおもしろかったのなら、私も、そう思うかもしれないと思って、もう一度、『発酵文化人類学』を読んでみようかな、と思った。柿内正午さんは、どのような経緯で、発酵に興味を持ったのだろう?スペクテイター?私は、テレビで小倉ヒラクさんを見たのがきっかけ。シャドーピッチングのように柿内正午さんと会話を交わす。

 一言で言えばこうだ。生活の批評誌は、軽く前向きに肯定的に流し流されようとする生活を、もっと重く批判的に楽しむことを推奨する「ライフスタイルマガジン」である。ー生活の批評誌『no.2特集:つながりは、いま救われているのか?』p1

 批判的に楽しむ。マイナスとプラスの組み合わせが、かっこいいと思った。先日のONE PIECEコミック100巻アニメ1000話記念映像作品の『TWILIGHT』の歌詞にも、マイナスとプラスの組み合わせが使われていた。私も、マイナスとプラスの合わせ技を使いたいと思った。と思ったら、『プルーストを読む生活』にONE PIECEの話題が登場して、ONE PIECE読むんだあ。と、再び、シャドーピッチングのように柿内正午さんと会話を交わした。生活の批評誌を読みたくなって、携帯で調べてみた。オンラインショップは、どこも売り切れのようだった。ああ、読んでみたい。

 共感という同調圧力への生きづらさへの共感。それはわからないからこそある共感だ。共通点や既に知っている感情にわかる、わかる、「いいね!」のアイコンをクリックするような感覚ではなかった。柿内正午『プルーストを読む生活』p357

 正しいと信じていたものへ一石を投じられたようでハッとした。共感。ここ数年、職場で大切にしていたキーワード。わからないからこそある共感かあ。確かに、と思った。柿内正午『プルーストを読む生活』に紹介されていた柴崎友香の共感の話も良いし、森博嗣の理性の話も良かった。引用したいくらいだけど、長いのでやめる。

 そこから、職場の部下の顔が浮かび、正論をそのまま言われても、結局、響かなければ意味がなく、そこは、わかるまで待つという姿勢、敢えて言わないという選択も必要だということを改めて思う。思うというか、言い聞かせるというか。

 僕は、「抵抗なく書けるという範囲」がものすごく狭いな、この日記だって日記というにはほとんど身の回りのことを書けない、柿内正午『プルーストを読む生活』p366

 私も、阿久津隆『読書の日記』を読んでいたけれど、初めて読むように、引用された箇所を読んで、これが、二度読むことの醍醐味というか、いまだからこそ、響いた箇所なのだろうな、と思った。赤裸々に書くことが、人が読みたいものなのだろうか、私は、赤裸々には書けないな、人を傷つけてまで私には書けないと思っていたことがあったけど、確かに、抵抗なく書ける範囲の範囲が人によって違うだけのことなのかもしれない、とも思った。

 メルカリにあるかもしれない、と閃いて、携帯電話を手に取り、メルカリのアプリを開いて、生活の批評誌と検索すると、売っている人が一人だけいて、私は、電光石火の如く購入した。

 さいきん考えていることは、千葉雅也ではないけれど「つながりすぎてはいけない」ということで、「水」とうまく出会い交流するためにも、まずは健全に閉じる必要があるということだった。そのためにユリイカベケットや『文化人類学の思考法』や『情報環世界』が買われたのだと思うこと。接続過剰に陥ることなく、かといって過剰に孤立を指向するでもなく、自分と世界とのインターフェース=「泡」の輪郭=環世界をきちんと把握すること。柿内正午『プルーストを読む生活』p370

 つながりすぎてはいけない。私のアンテナにひっかかたキーワード。読書と仕事と生きることの境界線が曖昧になってきた最近の私の生活に幸せを感じる。山口周のツイッターで読んだ「頑張る人」はなぜ「夢中な人」に勝てないのか?つらつら考えるに、それは「累積思考量の圧倒的な違い」ということになると思います、を思い出した。

 柿内正午『プルーストを読む生活』が400頁を超えたところだ。体調は、発熱はしていないが、悪寒がする。ワクチンを打った右手で『プルーストを読む生活』を持つのが辛い。

 

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2回目のワクチン接種

 ワクチンを早く打ちたいという積極的な姿勢ではなく、仕事柄、打たないといけないよね、仕方ない、と、1回目の接種が終わったのが8月下旬で、今日が2回目の接種の日だった。2回目の接種が本番みたいな感じだから憂鬱だった。

 接種会場で、案内係の女性が、私の持参したファイルを見て、このファイル、ドラえもん展のやつですよね、と声をかけてきた。声をかけずにはいられないと言った感じだった。通常なら、行きました?ドラえもん展。良かったですよね〜、とか返したあと、私も、そのしりあがり寿のファイル持ってます、くらいのキャッチボールがあるのだが、この時は、あ、はい、といつになく、愛想がなかったのは、ワクチン接種前で憂鬱だったから。

 待っている間、柿内正午『プルーストを読む生活』の続きを読む。

 エンパワメントなんていらねえ、バッドでもいいじゃねえか、という態度。自己肯定感なんかむりに高めなくていい、という最高度の肯定。苦しい辛いしんどいそれでも彼女たちはそこにいて、ここにいると記し続ける。読むこと、書くことによる連帯。自己陶酔と見紛う他者への没入、憑依、抗うこと。柿内正午『プルーストを読む生活』p272

 私のワクチン接種の順番がまもなくという刹那、本当に、ワクチンを打っていいのか?読書に逃げて思考停止になってんじゃないのか?という言葉が頭を過ぎるが、無となって、看護師の前に立った。

 辞書を持ち歩いているのですか?と看護師は、私に話しかけた。いいえ、辞書ではありません。日記です、と私は、応えた。柿内正午『プルーストを読む生活』は、700頁を超えるので、確かに辞書のような佇まいをしていた。これまで接種会場に来た人のなかで、一番、かっこいい持ち物です、と看護師は、キャッチボールを続ける。いいことがあったあとは、悪いことが来る、副反応が怖い、と頭を駆け巡った。

 ワクチン接種後、私は、『プルーストを読む生活』を読みながら、15分の待機時間を過ごした。私が読んできた本が何冊か登場して、いいよね、ケアをひらくシリーズと思ったり、『読書の日記』読んで、私も、その本を買ったと思ったりした。

 有能かどうかは、大学人かどうかでは決まらない、大事なのは知性的かどうかだろ?いま、その態度はむしろ大学人たちから反知性主義とそしられる側にある。しかし、「プロよりも有能なアマチュアたち」を単純に肯定することもできない。なぜなら、いま問わなければならないのはこの「有能」という価値に対する考え方自体をがらっと改めていかなきゃいけないんじゃないか、ということだからだ。柿内正午『プルーストを読む生活』p277    

 プロとアマチュアの相違。最近、少しばかり、考えていたこと。私のなかでの、プロフェッショナルの最新定義は、感動を与えられるかどうかということ。さらに深く考えるため、與那覇潤『知性は死なない 平成の鬱を超えて』を読みたくなった。與那覇潤って何て読むのだろう、とネットで検索したら、他の著書もあって、ケアをひらくシリーズでも本を出していることを知った。俄然、與那覇潤を読みたくなった。

 アナフィラキシーショックにならなくて、一安心した私は、パイプ椅子から立ち上がり、立ち上がった瞬間、昨日、針治療をした臀部が痛いことに気づいた。

 解熱剤を飲んだからなのか、今のところ、発熱もしていないので、『プルーストを読む生活』をゆっくり読もう。300頁を過ぎたところ。

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読書と仕事

 柿内正午『プルーストを読む生活』も200頁を超えた。『プルーストを読む生活』に限った話ではないが、読書をしながら、頭のなかに浮かんでくるのは仕事のことが多い。年を重ねると、変わるのだろうか。仕事を辞めたら、そりゃあ変わるだろう。そんなことを考えながら、眠りについた。

 文体について考える。真似したくなる文体とは、どういうものか?語尾か?人間性が語尾に現れると言った倉本聰の言葉を思い出した。映画なり、ドラマのことかもしれないが、それは文体にも同じことが言えるのではないか。そのテレビ番組で、倉本聰は、父から宮澤賢治の本を読むと良いと言われたと言っていた。宮澤賢治の文章にはリズムがあるからということらしい。リズムが良い文章を書くには、書いて、読んで、書き直すの繰り返しか。『プルーストを読む生活』に、プルーストが、原稿を、何度も、何度も書き直していたということが書かれていて、なぜか、その場面が好きで、頭のなかに、ふと思い出す。あと、どういう言葉を使うか、か。人が真似をしたくなるような文体を身につけたい。

 柿内正午『プルーストを読む生活』を置き、ふとテレビを見ると、政治家が映っていた。人の批判ではなく、あなたのやりたいことは何なんだ?編集の過程で、人の批判をしているところが切り取られるから、そのように見えるのだろうか。心が動かされるのは、後ろ向きな発言ではなく、前向きな発言ではないのか。

 柿内正午『プルーストを読む生活』に、あとがきや解説を読まなくなったというようなことが書かれていて、映画のエンドロールのことが頭のなかに浮かんだ。映画館で映画を観ると、私はエンドロールを観るときと観ないときがある。エンドロールを観るときは、余韻に浸っていたいときである。私が、あとがきや解説を読むのも、余韻に浸っていたいときかもしれない。いや、違うかもしれない。たまたま読んでいるのか。ほとんどの場合、解説は読まない。

 先日、考えていた問いに、一筋の答えが見えた。

 選べるということ、一つの価値観が押しつけられないことが必要条件。定年制を撤廃した方が良いと思った理由は?父は、もう働かなくても良い年齢だが、いまだに働いている。多分、冬は仕事をしていない。うらやましい。一年に一度、長い休暇があるなんて。私なら、旅行に行くだろう。今年は、読書三昧の年にするかなとか考えただけでうらやましい。それはさておき、父は、これまで何十年と働いていた知識、経験が活きる場所で、再就職している。ここがポイントではないか。必要とされているか?頼られているか?という視点。祖母と花見に行きたいと思った時のこと。祖母に、場所を教えてというと、一緒に行ってくれた。つまり、その場所に、自分が求められているか、どうかということ。であるならば、認知症のかたや、障害があるかたも同じではないか。何も、認知症、障害者と分ける必要はなく、配慮と方法を考えることが大切なのではないか。

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人間扱いしているかどうか

 その行為が、その物言いが、人間を人間扱いしているかどうか。この一節を、柿内正午『プルーストを読む生活』で読んでから、何度も何度も頭の中に浮かんでくる。こういうとき、今の私に必要なキーワードのような気がして、その感覚を大切にしている。で、時には、あたかも自分の言葉のように周りに話し、なんかしっくりこないなあ、とか恥ずかしさを感じつつ、考えを深める作業をしていく。

 長生きしたくない。その言葉を何度か耳にしてきた。なぜか、その言葉は女性ばかりから訊いた。性別が関係するかどうかはわからないが、なぜだろう、とその言葉を聞いてから、ふとした時に思い出して考えている。長生きする。長生きすると、できないことが増える。できないことが増えると人に頼らなければならなくなる。その過程で、もしかしたら、自分は人間扱いをされないのではないか、と不安がある。例え、自分の家族だとしても。また、自分のことで、自分の家族に迷惑をかけていることも苦痛。私の祖母は、迷惑をかけたくないが口癖だった。迷惑をかけてもいいじゃないか、と思っていたけど、その迷惑の度合いによるのかもしれない。自分のせいで家族がイライラしていたり、悲しんでいたりしたら、切ない。そうなると、福祉サービスを使うのがベスト。ただ、福祉サービスが、使いたいレベルにあるかどうか。サービス業で、トップレベルだな、と思う業種に、航空会社とホテルが思いつく。あのレベルに達していれば、長生きしたいと思えるのだろうか。どんな研修をしているのだろう。訊いてみたい。

 で、昨日、私は、日本の生産年齢人口が減少することについて考えていた。生産年齢人口が減少する、この日本に何が必要か。まずは定年制を撤廃すべきだと思う。なぜ、政治家は80代で現役なのに、会社員には定年があるのだろうと思う。退職したい人はすれば良いし、働きたい人は、そのまま働けば良いし、そのままの勤務ではなく、例えば、週3回勤務とか選べられるようになれば良いと思う。定年の延長を繰り返さないで、一気に廃止しますで良いのではないかと思っちゃう。定年がなければ何が困るのかを考えると、人件費が圧迫するのと、いつまでも管理者の座に君臨されるのも、ちょっとということが、頭の中に浮かんでくる。が、そんなに難しくないような問題のような気もする。難しいから、進まないのか。

 次に考えたのが、働きたいのに、働けていない人が働ける環境を作るということ。例えば、障害者であったり、ひきこもりだった人であったり。そこで、私は、大切なことを忘れていたということに気づく。生産性があるかどうか、役に立つかどうかで、人を判断する価値観を変えなければならないこと。役に立たなくて良いじゃないかという社会。たこ八郎さんが言っていた迷惑かけてありがとうとか、大竹伸朗さんが言っていた、こいつ、いなきゃよかったのに、仕方ねえな、と言いながら笑っている社会を作るにはどうしたら良いか。認知症になっても、障害がどんなに重くても、安心できる社会。その人たちが、活き活きしている、大切にされているというのが、周りに伝わることが必要。どうしたら、活き活きするのかを考えると、役割があるということなのか、という一つの答えにたどり着く。役割も結局、役にたつかどうかという視点になっているのか。定年制を撤廃した方が良いと思ったのは、この役割があるからこそ、健康寿命も伸びるのではないかと思ったから。では仕事の代わりに社会参加として、ボランティア活動みたいな考え方があるけど、そこに別な生きがいを感じる人もいるので、選択肢としてあるのはいいけど、考え方としては、これまで培った経験が活きる形が自然だし、入りやすいのではないだろうか。

 あと、最近、考えているのが、自分で選べるかということが、重要だということ。何か一つの答えを押し付けられないこと。私は、将来、デイサービスとかには行かないで、日向ぼっこをしながら、読書をする生活を送って余生を過ごせればと思っていて、それは、人に気を使うのが嫌だなというのと、そもそもデイサービスに行っても楽しそうではないというのがある。どうなんだろう。自分からデイサービスに行きたいと行っている人はいるのだろうか。家族の希望で行っている方が多いのだろうか。そうなると、というか、人と関わらないでいると、役割がないということになるのか。全ての人に役割があるというのが必要というわけではないだろう。 

 僕は思想家のイヴァン・イリイチがすごく好きで、彼が晩年に言っていたのが、「人びとに『未来』などない。あるのは『希望』だけだ」。この言葉を当てはめると、未来に囚われ続けてしまうと自分すら投機対象になってしまうってことなんです。

 未来に向けて自分を開発して値段を上げていくと、それはいわゆる「財」になっちゃうわけですよね。でも人はそもそも財ではないわけだから。

 きのう引き合いに出したクラシコムジャーナルの若林恵の対談を読み返したら、冒頭に引用した部分にはっとした。これまでさらっと読み溢していた部分だった。

 これは、僕の感じる「人財」というワードへの気持ち悪さを解きほぐすためのとっかかりになりそうな言葉だ。柿内正午『プルーストを読む生活』p114−115

 昔、研修で、人財について聞いたことを思い出した。その時の記憶でいけば、会社の財産だから、人財なんですというようなことを言っていて、そんなに気持ち悪さを感じていなかった。柿内正午『プルーストを読む生活』を読みながら、そこに疑問を持つ人がいるんだなあ、ということと、うまく言語化できないけれど、その当たり前のことに疑問を持つということは、大切なことで、ここに何か大切なことがあるような気がして、だけど、言語化できないから、もう少し、考えてみたいと思う。

 

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ONE PIECEコミック100巻アニメ1,000話記念映像作品

 ONE PIECE100巻を記念していろいろ企画をしているみたいなんだけど、詳細はわからない。わからないけど、たまたまつけていたテレビで、逃走中とONE PIECEがコラボしていて、最後までついつい見ちゃったり、YouTubeを見ていたら、コミック100巻アニメ1,000話記念映像作品という動画を見つけて、最高かよ、と涙し、通勤途中の車中でも、TWILIGHTをかけている。何度も、何度も、聴いている。なんなら、これを書きながらも聴いている。漫画を何度も読んでいるから、結末がわかっているのに、映像をみて、思い出して、涙が出てくるって。

 これを書きながら、どんな企画があるのだろうと、検索すると、ONE PIECE100巻記念サイトというものがあり、開くと、尾田栄一郎さんからのメッセージが掲載されていて、ONE PIECEが連載されて24年と知る。

 社会人になりたての頃、お金がなくて、集めていたONE PIECEを売り、後に、何で売ったのだろうと後悔して、買い直すという愚行をしたり、職場の後輩が、退職する時に、アラバスタ編全巻を買ってプレゼントし、続き読みたかったら、自分で買ってと言ったり、管理職をするようになった私の理想とする上司は、ONE PIECEに登場するトムさんであり、おでんである。

 

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