どんまい

いろいろあるけれど、それでいい

安心・安全な場所

・・・相模原障害者施設殺傷事件。・・・座間市で9人を連続殺害して遺棄した事件。・・・どちらも信じられないようほど残忍な犯罪だ。今生だけでは償うことのできないほどの重い罪だと思う。しかし、すでに刑務所で長く受刑者たちと触れあってきたわたしには、容疑者が単なる「理解不能のモンスター」で「生まれつきの異常者」であるとは思えなかった。寮美千子『あふれでたのはやさしさだった』p13

 

相模原障害者施設殺傷事件のあと、自分なりに考えたけれど、加害者については、理解不能という結論だった。ただ、上記の文章を読んで、はっとした。そうだよな。私は理解不能と、思考停止していただけかもしれないな、と思った。

 

障害者は社会の重荷という加害者の主張についての反論は考えたけれど、その加害者は、どんな人生を歩んできて、事件を起こしたかについては、知ろうとさえしていなかった。

 

以前、読んだ現代思想『相模原障害者殺傷事件』をもう一度、開いた。

 

すべての現象には特異性と普遍性がある。事件も例外ではない。ところが事件が注目されればされるほどメディア(社会)は特異性ばかりに注目し、その帰結として犯人は理解不能なモンスターに造形される。ならば事件から教訓を学んだり再発防止策を講じたりすることなど不可能だ。僕もかつてテレビメディアにいたから、その背景やメカニズムについて、ある程度は推察できる。大きな要因は2つだ。そのひとつは、異常さを強調したほうが視聴率や部数は上がるという市場原理だ。そして2つめは、もしも普遍性を口にすれば、犯人を擁護するのかと強烈な反撃を食らう可能性があるとの恐れだ。この帰結として、事件の本質は真相からどんどん遊離する。だからこそ、安易な特異性の発見に狂奔するだけではなく、歯を食いしばってでも普遍性を探索しなくてはならない。現代思想『相模原障害者殺傷事件』p17

 

普遍性を探索するためには、やはり加害者の歩んできた人生について知る必要があるのではないか、と思った。ただ、知りうる情報の中に、私が知りたいと思う情報を入手できるのだろうか、とも同時に思った。

 

寮美千子『あふれでたのはやさしさだった』に話を戻そう。

 

この本は、奈良少年刑務所で行われた絵本と詩の教室についての経緯や様子、そこで出会った少年たちについて書かれている。

 

どんな若者たちがいるのかについては、本書で読むのが一番、伝わると思うので、ここでは省く。一言つけ足すとすれば、ここで登場する若者たちは、理解不能のモンスターでもなく、生まれつきの異常者でもない。

 

印象的な言葉がある。絵本と詩の教室で一番気をつけていたのが、「安心・安全の場」だということ。

 

安心・安全な場が大切だということは、以前にも、どこかで訊いたことがある、とブログ内を検索した。

 

rakuunanzyuku.hatenablog.com

 

rakuunanzyuku.hatenablog.com

 

自殺する人が少ない街、会社の生産性を高める上でのキーワードに、安心・安全というのがあった。

 

 私は何かと組織運営について考える。組織運営においても安心・安全は大切だということはわかった。ただ、緊張感とのバランスも大切なのではないかと思う。どうなんだろうか。安心・安全を追求していけば、自ずから自律的に、緊張感を持つのだろうか。そこのところはどうしているのだろうか。ただ、安心・安全が大切だということに変わりはないのだが。

 

 

いろんな国の作家の本を読んでみたい

花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくた1年間のこと』に紹介されていたラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』を読んでいる。

 

これは内容が最高なのはもちろんだが、紹介映えする本でもある。まず、タイ、というところが珍しいし、これを書いた後、この作家が消息不明になってしまった、というエピソードもあって、どうにも生々しい興味を持ってもらいやすいのだ。「これはタイが舞台になっていて、貧困の中で生きる人たちの日々を瑞々しく切り取った本当に美しい短編小説集です。悲しい話が多いのですが、それでも懸命に今を生きる人の姿がきらきらと残り、さわやかな希望を感じるような作品です。まだまだマイナーな作品ですが、海外文芸好きからはすでにかなり高く評価されています。それに海外文芸特有の翻訳の言い回しが苦手な人にも、これだったら違和感なく読んでもらえると思います」花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくた1年間のこと』p168

 

この箇所を読んで、購入することにした。

 

この表紙良いなあ、と思って文庫にした。

 

写真だと思ったら、絵だった。

 

何かの本で読んだけど、小説って、その国の、その時代の、人々の生活を知ることができる。

 

読みながら、数年前にタイに行ったことを思い出した。

 

また、海外に行きたいなあ、と思ったり、外国人と本の話をするのもおもしろいだろうな、と思った。で、おすすめの作家を教えてもらいたい。いろんな国の作家の本を読んでみたいと思った。

  

観光 (ハヤカワepi文庫)
 

 

考えないのもよくないが、考えすぎなのも良くない。

飲茶『史上最強の哲学入門』と『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』がおもしろくて、ほかの本も読みたいなと思っていた。思っていただけど、数年が経ち、この前、やっと手にした。飲茶『哲学的な何か、あと科学とか』という本。

 

「A=B,B=Cならば、A=C」。いつしか学校で習った疑いものない数式。

 

論理的思考には、必ず「飛躍」と「矛盾」があるというページを読みながら、唸る。

 

「A=B,B=Cならば、A=C」というのは、「A=A=A。Aは、Aであり、Aである」と言っていることになり、何の意味もなさない。つまり、「A=B」や「AはBである」という言葉が意味をなすのは、あくまで「AとBが違う」ときである。飲茶『哲学的な何か、あと科学とか』p22-23

 

「A=B,B=Cならば、A=C」。全く疑わないで生きてきたけれど、確かに、上記のとおりである。

 

哲学者は、考えすぎて、発狂してしまわないのだろうか。考えないのもよくないが、考えすぎなのも良くない。

 

ただ、私は、哲学に惹かれる。なぜ、だろう。どこが好きなのだろう。独自の哲学や哲学的という言葉が好き。言葉に込められているのは、深さか。人間的に深みのある人間になりたいと思っている。どこか哲学は関係があると思っているから興味があるのだろう。

 

哲学的な何か、あと科学とか

哲学的な何か、あと科学とか

  • 作者:飲茶
  • 発売日: 2011/04/28
  • メディア: Kindle
 

 

介護革命

朝の除雪は2時間かかった。今年はよく雪が降る。除雪が終わり、ブックオフへ。年始にブックオフ巡りをしているときに、10日からだったか、新書と200円以上の文庫が50%オフになると知った。1軒で腰が痛くなり、ラーメンを食べて帰宅。

 

落合陽一さんの本を数冊、購入した。

 

テレビで、テクノロジーを活用した福祉の実践あるいは提案をしているのを見ながら、落合陽一さんの考え方をもっと知りたくなった。発想が柔軟だった。

 

落合陽一・猪瀬直樹『ニッポン2021-2050』にも、5Gで起きる介護革命という文章があり、確かに、私は、将来、介護が必要になったら、人ではなくて、ロボットに介護してもらいたいと思っていたことを思い出した。

 

なぜか、というと、人だとどうしても気を遣ったり、言いたいことが言えなかったり、最悪、虐待だったりされたら嫌だから。ロボットの方が気楽なのではないだろうか。しかも、施設に入らず、自宅で生活できれば、なおのこと気楽で良い。

 

宅配についての記述もあって、私も宅配にある可能性を感じていて、アイデアの蔓がのびて、お風呂に入っている間も、ああが良いかもしれない、こうが良いかもしれない、と考えた。

 

最近、0から1を生み出すことが求められることが増え、休みの日にも、ふと、スイッチが入って、あれこれ、考えることが多い。

 

この本を読みながら、都市と地方で起こる課題というのは、当然、違うことに気づき、そうなると、全国一律の制度というのは、どうなんだろう、と思うに至り、何か、全国一律ではない何かがあるような話を訊いたような気もする、とあれこれ考える。

 

世界の先頭を走り、日本は、高齢化社会を迎え、そのノウハウが、今後、輸出できるのではないか、と落合陽一さんは言う。そういえば、誰かの本でも、世界が経験していない高齢化社会を迎える日本に住んでいるほうが、外国に住むよりもおもしろいと言っていた人がいた。なんて、ポジティブなんだ。

 

その解決策のひとつは、テクノロジーで、だけど、そのテクノロジーは間に合うのだろうか。介護をロボットなんて、いつの時代になるのだろう。いや、携帯電話が、ここまで一気に発展したのすら、あっという間だったし、自動運転も現実味を帯びてきたし。

 

落合陽一さんは、未来のビジョンを語る上で、歴史を知ることが必要だと言う。確かに、私も、歴史を線で捉えることが大切だよな、と思っていたことを思い出した。そうなると、私が必要な歴史は、どのようなものか。私が働いている分野の歴史か。世界も含めて。

 

 

 

誰かのせいにした段階で成長が止まる

テレビを見ていて、なんとなく、この人、好きじゃないなあと思う人がいる。見た目は大事だ。なんとなく、この人、チャラいなと思うだけで、あまり好きになれない。ごくたまあにではあるが。

 

先日、好きなテレビ番組に、そのなんとなく、この人、好きじゃないなあという人が出演していて、もしかしたら、私が毛嫌いをしているだけで、おもしろいと思うかもしれないと思って、我慢まではいかないが、見ることにした。

 

そのテレビ番組の構成が良かったのか、この人、好きじゃないなあから、この人、おもしろいかもしれないと思い直した。

 

これが、現実であれば、たぶん、というか、ほぼ確実に私は、その人のことを知ろうとはしなだろう。合わないと思う人とは、極力、会わないようにしている。

 

ただ、直接会わないことの良さと言えば良いのか、本は、直接、会うよりも、素直に、心を開いて、その人の考え方を聞くことができる。聞くことができるというか、読むことができる。おもしろくなければ、本を閉じるだけだし。

 

直接、会ったら、合わないかもしれない人とも、本では合うということがあるような気がする。

 

うらやむ必要はない、また、否定を言葉にする意味もない。自分は、自分の目の前にあるつくりかけの作品を良くすることだけに集中していればいい。いつもこう自分に言い聞かせて、行くべき道を踏み外さないようにしています。うちはうち、よそはよそ。小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』P 48

 

誰かの良くないところを改めさせたい、という気持ちは、思うように結果が出なかったことを人のせいにしているということ。大事なことは「人にどうあってほしいか」よりも「自分がどうありたいか」です。小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』P53

 

録画しておいたSWITCHインタビュー達人達を観た。太田雄貴と谷昇の回だった。

 

太田雄貴は、フェンシングの太田である。その太田が、こんなことを言っていた。

 

「私の周りのオリンピックで金メダルを奪っている人は、人のせいにしない人が多い」と。

 

日本ではめちゃめちゃ強い先輩でも、世界に出ると通用しない先輩を多く見た。審判が悪いと言っていても始まらない。できない理由を探すのではなく、できる理由を探す、と。

 

こう書いていると、昨年、部下を見ていて、この部下2人は伸びるな、と確信めいたものを感じた。その理由は、その2人は、ミスを人のせいにしなかったから。その2人の責任だけではなかったはずなのに、その発言から、微塵も、人のせいにしている感じがなかった。その姿を見て、成長する人は、人のせいにしない人ということになった。

 

SWITCHインタビュー達人達での太田雄貴もこう言っていた。

 

誰かのせいにした段階で成長が止まる、と。

 

私も、誰かのせいにするのは辞めてみようかな、と持った。

 

中年だけど、まだ、成長するのだろうか。

仕事をする上で大切なこと

所属する組織の行動指針というか、仕事をする上でお願いしていることというか、ルールというか、部下によく話していることの中に、自分だけ良ければ良いという仕事の仕方はしないで欲しいと言っている。

 

なぜか。

 

その昔、参加していた会議で、自分が、自分が、と自分の知識や技術をひけらかしている人がいて、何か、自慰行為を見せつけられている感じがして、ああはなってはいけないと思った。一度だけではなく、何度かそういう人に出会ったことがあって、そういう自分は大丈夫か?と戒めるようにしている。

 

あとは、仕事が辞めたくなる理由の上位に「人間関係が悪い」からというのがあって、人間関係をよくする上で大切なことが、自分だけ良ければ良いという仕事をしないというのが大切なのではないかとも思っている。

 

そんなことを佐藤卓『塑する思考』を読みながら思い出した。この自分が、自分が、という仕事がなぜいけないかについて、47頁から書かれている。

 

自分が意識されたとたん、困ったことに自我は我欲と直結してしまう。佐藤卓『塑する思考』p49

 

ごく稀に、個人的な趣味をそのまま仕事として成立させている人がないではありませんが、世の中のほとんどの仕事は不特定多数の人々のための営為であって、自分の「好き」のために世の中が回っているわけではないのです。ところが自分の「好き」を基準にしてしか仕事ができない、つまり「我欲」をコントロールできないまま社会人を続けようとしてうまく行かずに悩んでいる人は少なくない。佐藤卓『塑する思考』p50

 

どんな仕事でも本来、こちらの自我をあちらの他者に押し付ける所行ではなく、多くの人々と共鳴するところを冷静に感じ極める作業だからです。佐藤卓『塑する思考』p51-52

 

主体は自分ではなく、飽くまで相手なのです。この方法が見えてくると、自我が描こうとする世界とはまったく異なった地平が拓かれます。そして「やるべきこと」が、無理なく「やりたいこと」に変換され、「やりたいこと」と「社会」が連動し始めるのです。佐藤卓『塑する思考』p53

 

ここの箇所、すごいわかる。今、そんな心境。仕事としてやるべきことが自分のやりたいことと合致している感覚があって、それは、ここでいう「やるべきこと」が、無理なく「やりたいこと」に変換されたということなのかもしれない、と思った。

 

発想とは、ある目的のために今まで繋がっていなかった事物同士をつなげる試みであって、自分が「無」から純粋に生み出すのではけっしてありません。すでにあるのに気がつかずにいた関係を発見して繋ぐ営為、と言ってもいいでしょう。佐藤卓『塑する思考』p55

 

塑性的であるとは、社会の流れにただ身を委ねることでも、無闇に付和雷同することでも、ましてや世の中に媚びて流行を追うでもなく、置かれた状況を極力客観的に受け止め、適切に対応できる状態に自分をしておくことなのです。・・・やりたいことを、ではなく、やるべきことをやる、の姿勢です。佐藤卓『塑する思考』p60

 

なんか、20代の頃を思い出した。信念を持ちたいと思っていた。流されたくないというか。今は、自分が、自分が、というのがないから、楽というか、自然体というか、やるべきことがやりたいことになっているんだろうなあ。

 

塑する思考

塑する思考

 

北海道道〜吉田兄弟SP

たまたまつけていたテレビで、北海道道という番組をやっていた。

 

吉田兄弟の特集だった。

 

吉田兄弟の存在は、もちろんというか、以前から知っていたけれど、吉田兄弟が、北海道登別市出身だということは、初めて知った。三味線といえば、青森だから、えっ、北海道なの?と思った。

 

その特集を観ていて、改めて、吉田兄弟かっこいいな、と思って、YouTubeで音楽を聴いた。

 

伝統芸能は、昔、流行ったもので、今も、流行らないと、これから先100年後に残らないと思う、いうようなことを言っていて、なるほどなあ、と思った。

 

 

挑戦している人たちの姿は、それだけで、かっこいい。