北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

やっていけるとか、やっていけないとか

次の日は仕事だというのに、全く寝つけなかった。

 

3時を過ぎ、4時になり、外が白み、眠るのをあきらめた。

 

パソコンの電源をつけ、桜井鈴茂さんのホームページを開き、新作の小説が発表されていないかを調べた。

 

新作は発表されていなかった。ホームページにリンクが貼られているインタビュー記事を何とはなしに読んでいった。

 

www.100hyakunen.com

 

桜井さんが、大学時代、ロンドンとパリへ旅行に行き、高校時代の同級生に会った話が良かった。

 

その同級生は、頭が良くて、現役で北大に受かるんだけど、1年で退学し、ロンドンに渡って、彫刻作品を作っていた。桜井さんは、その同級生に、「これでやっていけると思ったんだ?」と訊いた。「やっていけるってどういう意味?」って怒ったように問い返され、「やっていけるとか、やっていけないとかどうでもいい。自分が何をやりたいか、わたしにはそれしか関係ない」と言われた。桜井さんは自分が打算的に物事を考えているようになっていることに気づかされたと語っていた。

 

ロンドンでの、もう一人の女性との出会いもあり、桜井さんは、日本に戻ってきて、バンド活動を始めた。というか再開した。バンド活動は27歳まで続いた。

 

その記事を読みながら、数日前、私が、職場の後輩に言った言葉を思い出した。

 

好きなことや、やりたいことを、金に結びつけようとするのは野暮だよ。金にならなくても、好きなことや、やりたいことなら、やれば良い。

 

私が、そう考えるようになったのは何歳の時だったのだろう。20代後半から30代前半くらいだったのだろうか。

 

今も、私は、自分の好きなことや、やりたいことを細々と続けている。

 

ただ、一方、一つのことに全力を傾け、燃え尽きるかのように生きている人に出会うと、私は、自分の好きなことや、やりたいことを、この人のように真剣に、本気で、やったのか?やりきったのか?と問いかけることもある。

 

 

今、鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』を読んでいる。 

ブードゥーラウンジ

ブードゥーラウンジ

  • 作者:鹿子 裕文
  • 発売日: 2020/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

僕はときどき、「ブードゥーラウンジ」の片隅でこんなことを思うことがある。客の数よりもステージに上がる人間の数の方が多い、そんなさびしい夜などにだ。どれだけ活動を続けても報われない人たちは、いったいどうやって折れずにやっているのだろう。安い出演料しかもらえず、それどころか、客が呼べなければノルマを払わなければいけなくるというのに、それでも音楽を続けようというモチベーションはどこから来るのだろう。事実、自分に見切りをつけてやめていく人間だって少なくないのだ。やめる人間と続ける人間。それを分けるのは単純に音楽への愛情の濃さ薄さの問題なのだろうか。それとも生き方の問題なのだろうか。お金のためじゃないというのなら、じゃあなんのためにやっているのだろう。どんな人間にも表現欲求というものがあるにせよ、そうまでして見せたいと思う気持ちはいったいどこから生まれてくるのだろう。存在証明だろうか。生き甲斐だろうか。承認欲求だろうか。誰かが「君の歌はいいよ」と言ってくれるからだろうか。それが気持ちいいからだろうか。それとも、もう引っ込みがつかないという意地みたいなものだろうか。もしそれが意地だとしたら、それはなんのために張らなければいけない意地なのだろうか。あるいは、いろいろ揺れる中でまだ火花がパチンと散っているからだろうか。

 

どれも正解のような気がするし、どれもまた不正解のような気がする。あるいはそんなことを頭に浮かべている時点で、すでに大間違いなのかもしれなかった。

 

客が入らない日の「ブードゥーラウンジ」は、ひんやりとして静かだった。

 

鹿子裕文『ブードゥーラウンジ』p201-202

 

福岡市にあるライブハウス『ブードゥーラウンジ』を舞台とした物語。この物語は事実である。

 

その物語に登場するオクムラユウスケの物語を読みながら、私は、涙を流した。本を読みながら泣いたのは久々だった。

 

本を閉じ、YouTubeで、オクムラユウスケと検索し、いくつかの動画を見た。動画の中には、私が涙したヨコチンロックフェスティバルの動画もあった。

 

 

私は、ここのところ熱中していた携帯ゲームをやめることにした。