北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

日記

カリカリカリ。猫がご飯ちょうだいというアピールで目が覚める。寝ぼけ眼で、携帯電話で時間を確認すると、5時半。昨日よりは遅くなったけど、5時半は早いでしょ、今、ご飯食べると、後でお腹すくよ、と思いながらだったのか、言いながらだったのか、そのまま寝る。今日は、布団の中に猫は入ってきてくれない。

 

滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を読み終わった。

 

日記を読んだのは、これが初めてのような気がする。

 

日記の魅力ってなんなんだろう?小説のように次が気になって読む手が止まらないというわけでもなく、何か為になったという類のものでもない。だけど、日記は、おもしろい。滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を読んでいる最後の方で、ノンフィクションの小説のようだな、と思ったのと何か関係しているのだろうか。

 

あとがきに、日記と小説の違いというような話があって、ここは後で読み返そうと思った。

日記を書くということ。ある日の出来事を、その日付のもとに記録すること。そのいいところも、よくないところもあると思う。滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』p283

 

日記のいいところって何だろう?あとで読みかえして、ああ、そうだった、と思い出すことができるところだろうか。人に見られるのを前提にしているのと、人に見られないのを前提にしている日記でも違うような気がする。

 

よくないところ。同じような毎日で書くことがなくなってしまうところだろうか。

 

一日の出来事のなかには、日記にしか書けない事柄がたくさんある。日記に書かなければ書きとめられることはない事柄を、日記は言葉で書き留めておくことができる。一方では、日記には書けない事柄もある。時間が経って、多くの出来事が消え失せたあとで、その日をどうにか取り戻そうと願うように記される言葉は、日記とは別の形で出来事を記録する。そして小説は、そういう言葉で書かれるものだと思う。だからある一日を、ある出来事を、日記に書いてしまったら、もうそのことは小説のように書けないような気がする。・・・日記と小説というのはそんなに違うものではないのかもしれない、というのがこの日記を書きながら思ったことだ。『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』p283

 

この本の中でもとくに、好きだった一節。こうして、作家が、小説をどのように書いているのかを知る機会というのはなかなかない。

 

滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』は、NUMABOOKSから出版されている。他にどんな本を出版しているのか気になって、ブログを書いている手を止めて、NUMABOOKSのホームページを見た。

 

阿久津隆『読書の日記』もNUMABOOKSだった。というか、日記は、滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』が初めてではなかった。阿久津隆『読書の日記』も最高におもしろくて、今度、続編が出るというのをツイッターかだったかで知ったので、今から楽しみで仕方ない。

 

阿久津隆『読書の日記』の魅力はなんだったんだろう?ノンフィクションのところか。ああ、今日はお客さんが来なかった、とかもそのまま書かれているのが、よりリアルとうか、良いところばかりじゃなくて、そんな光の当たっている部分ばかりじゃないよね、と思ったのが良かったのか。fuzkueという店を営んでいく上での良いことと、大変なことが読めたのが良かったのではないか。

 

と書いていくと、日記の魅力は、その過程にある気がしてきた。良いことも悪いことも含めて。

 

NUMABOOKSは、内沼晋太郎さんが代表を務めていて、振り返ると、fuzkueを知ったのも、内沼晋太郎『これからの本屋読本』だった、と思い出して、今度、東京に行った際には、B&Bも行きたい本屋さんの一つとなった。

 

滝口悠生『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』を読み終わり、次は何を読もうか、と本棚を眺めていて、武田百合子富士日記』を読むことにした。ここは日記つながりということで。