北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

年功序列は良いかもしれない。

自己研鑽が必要だというのはわかっているけれど、仕事を終え、自宅に帰ってくる頃には、そんな気持ちは萎えていて、いつしか自宅で自己研鑽をしょうという気持ちすらなくなって、何年にもなる。

 

そんな私が、最近、医学書院の「シリーズケアをひらく」に出会い、おもしろい本として読んでいたんだけど、これって、自己研鑽になっているなということに気づき、何らストレスなく、自己研鑽できているのが嬉しいなと思った。今まで、勉強しようという心の持ち方が悪かったのかもしれないと思ったり。

 

そんなわけで、今は、小澤勲「ケアってなんだろう」を読んでいる。

ケアってなんだろう (シリーズ ケアをひらく)

ケアってなんだろう (シリーズ ケアをひらく)

 

本を読んでいると、認知症の介護は、完璧を求めないのが、長続きするコツというようなことが書いてあって、看護師だったり、福祉の仕事をしている人は、家族にそのような介護を必要とする人がいた場合、仕事柄、介護を完璧にこなそうとしるのかな。長続きしないとわかっているから完璧を求めないのかな。どうなんだろう?

 

社会の価値の置き方みたいなもので、第一に目の前の有用性が問われてしまう。今、ものの役に立つか立たないか。うっかりすると、発達障害の人が存在することによって社会がかえってスムーズになりますみたいに、有用性の軸で発達障害の人を評価するような意見も出てきたりします。それは有用性がなくてもこの人は居ていいんだというのとは明らかに違いますよね。小澤勲「ケアってなんだろう」p88

障がい者が、衰退する産業の担い手になる。言い方を変えると、障がい者が衰退する産業の役に立つ。これはこれで良いように思うけど、どうなんだろうか。ただ、役に立つかどうかが存在理由というのはよくない。現在、私は、障がいがあったり、認知症でもないから、他人からそのような判断をされる機会はないけれど、仮に、誰かが自分のことを、生きている意味があるかどうかとか、役に立つかどうかとかを判断されているだけで、何で、他人に、そんなことを判断されるのよなる。

 

いろいろ悪くいわれますが、「年功序列」も捨てたもんじゃないんですよ。小澤勲「ケアってなんだろう」p88

予備校に通っている時に、政治経済の先生も言っていたな、と思い出した。政治経済の先生は、「給料は、年功序列が良いですか?能力給が良いですか?」という質問をみんなにしていて。みんな、当然のように、がんばった人は、がんばっただけ評価されるべきだという意見が多数を占めていたように思う。

 

最近、人事考課について考えることがあって、というか、今もたまあに考える。

 

がんばったやつは、がんばっただけ評価されるという仕組みを作ること自体が難しいのではないかと思っている。私がまだまだ知識が少ないだけかもしれないけれど。

 

自己評価は、人によって甘い人もいれば、自分に厳しい人もいて、他者評価も、対象者に好意を抱いているかどうかで、違うだろうし。アピールがうまいやつだったりでも違うだろうし。

 

売り上げ成績だったり、スポーツ選手みたいに成績が出るものだったら、能力給にしやすいと思うんだけど、それ以外の場合は、どうなんだろうか。私が知らないだけだろうか。