北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

売れてないとか、評価されてないとかは関係ない。

今週のはじめに引っ越しをして、荷ほどきの作業をひたすらしている。ネットも開通していないので、テザリングで更新。

 

蔵書がダンボール50箱になって、引っ越しの作業員に申し訳ないなあ、と思いながら眺めていた。5人で作業してくれたのがせめてもの救い。2人できていたら、どこか故障していただろう。今日は、あと何軒あるんですか?と訊いたら、あと2軒あるといっていた。私の引っ越しが13時開始だったので、午前中から働いているとすると、4軒の引っ越しをしているのか、私にはとても無理だ。この荷ほどきの作業だけでも、疲労の蓄積が甚だしく、腰が痛い。

 

これまで、蔵書を売って失敗したと思うことがあったので、ここ何年かは、売ってこなかったけれど、新居の本棚を眺めながら、売ろうかな、と思い直した。

 

今、ツチヤタカユキ『笑いのカイブツ』を読んでいるけんだど、これはやばいなあ、と読むのが止まらない。

 

イチロー引退試合及び引退会見を見ながら感じた感覚と似ている。

 

なぜ、ここまで徹底的にひとつのことを追求することができるのか?

 

おれは徹底的に何かをやったか?と心の底から自分自身の声が語りかけてくる。

 

ツチヤタカユキは、笑いのネタを生み続けて生きる。

 

お笑いといっても、漫才師やコメディアンとかではなく、どちらかというと構成作家。なぜ、漫才師とかコメディアンにならなかったのかはわからない。

 

何がすごいかって、働いている時間がもったいないから働くのはお金がなくなった時で、おしゃれをする時間ももったいないから頭は坊主にし、煩わしい人間関係はシャットアウトする。お金がもったいないと、ひたすら、チラシの裏に、ボールペンでネタを書いていく。イオンのフードコートで。

 

どうだろう?イオンのフードコートで、一心不乱に、チラシの裏に文字を書いている人を見かけたら変な人だと思うだろうか?

 

思うかもしれない。フードコートで見かけたら、変な人がいると思うかもしれないのに、こうして本を読んでいたら、変な人だとは思わない。逆に、ひとつのことにここまで徹底できることに羨ましさすら感じるし、尊敬の念がわく。どうしてだろう?

 

煩わしい人間関係をシャットアウトして、友達と呼べる友達がいなかったけれど、一人だけ、理解者となる友達がいて、ツチヤタカユキが、お笑いの仕事が全然、来ず、自暴自棄になっている時にかけた言葉がいい。

 

「・・・俺が今までめちゃくちゃやって、生きてたんはな、退屈やったからやねん。ホンマに何もかも退屈すぎてな、ギャンブルしたり、女に走ったり、街でケンカしたり、めちゃくちゃしてまうねん。家におったら息がつまりそうなるし、テレビもおもんない。ええか?おまえはな、その退屈をたおしてんねん。お笑いをやることによって、その退屈を倒せてんねん。俺は今まで、退屈を倒すために、600万借金したり、刑務所入ったりしたけど、おまえには、お笑いがあるから、タダで退屈を倒せとんねん。売れてへんとか、評価されへんとかは、関係ないねん。ずっと10年くらい、それに没頭して、退屈を感じることなく、生きてきた時点で、俺からしたらうらやましいねん。俺には、おまえのお笑いみたいなんが、ないねん。いつも退屈を倒すために、ずっと、難波の街をうろつくしかないねん。だから、もうガタガタぬかすな。好きなこと、10年やった時点で、おまえは幸せな奴や」ツチヤタカユキ『笑いのカイブツ』p87

 

 

私もそう思う。

 

笑いのカイブツ

笑いのカイブツ