北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

居るのはつらいよ

本の読める店、fuzkueで気になった本の一冊が、國分功一郎『中動態の世界 意思と責任の考古学』という本だった。

 

 

なぜ気になったかというと、ちょうどその頃、読んでた本が、『シリーズケアをひらく』という同じシリーズの本で、東畑開人『居るのはつらいよ』だったから。

 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)
 

 

東畑開人『居るのはつらいよ』は、少し大きな本だったので、東京には持って行かず、自宅に置いておいたのだが、東京に行って、先に読みたい本ができたので、途中で読むのをやめて、先に読みたい本が読み終わったので、昨日から、再び、東畑開人『居るのはつらいよ』の続きを読んでいる。

 

精神科デイケアに就職した臨床心理士が、ケアとセラピーについてあれこれ考えるという本。

 

今日、読んでいたページに、「依存労働」という話があって、興味深かった。

 

臨床心理士の主人公は、誰にでもできる車の運転をして、メンバーさんと呼ばれる精神科デイケアに来ている方達と外出する。そこで、運転はおれの仕事か?と考えるのである。

 

福祉を仕事としている人なら何度となく考える、専門性とは?という話。

 

エヴァ・フェダー・キティという哲学者が、こういう仕事を「依存労働」と呼んだ。

 

依存労働は、脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する仕事である。依存労働は、親密な者同士の絆を維持し、あるいはそれ自体が親密さや信頼、すなわちつながりをつくりだす。(キティ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』85頁)東畑開人『居るのはつらいよ』p103

 

依存労働とは、専門化しないままに残ったケアの仕事のことなのだ。だから、僕はそこにニーズがあれば、ありとあらゆることをやらなくてはいけなかった。東畑開人『居るのはつらいよ』p105

 

誰にでもできるような仕事だから、それ、おれの仕事じゃない良いよね?ってなるけれど、してもらう側からしたら、誰にでもできるその当たり前のことをしてほしいという方が多くて、専門的なことっていうのは、実は、当たり前のことよりも求められていなかったりするのかもしれない。

 

依存労働は当たり前のものを、さも当たり前のように提供することで、自分が依存していることに気がつかせない。そう思うと、依存労働って、本当に損な仕事だ。すべてのお母さんたちは大変なのだ。仕事が成功しているときほど、誰からも感謝されないからだ。感謝されなければされないほど、その仕事はうまくなされている。依存労働の社会的評価が低いのには、きっとそういう事情もあるのだろう。東畑開人『居るのはつらいよ』p114-115