北の凡

いろいろあるけれど、それでいい

心が動いた事柄から考えることを始める

吉野源三郎羽賀翔一君たちはどう生きるか』で読んだ、心が動いた事柄から、考えることを始めるということをやってみる。

 

喜怒哀楽の並びは、怒と哀の負の感情は、喜と楽の正の感情に、サンドイッチのように挟まれているけれど、喜怒哀楽という四字熟語を考えた人は、その並びに何らかの意味を持たせているのだろうか?それとも語呂が良いからだろうか?とか、考えながら、心が動くといっても、喜びや楽しみの正の感情よりも、怒りや悲しみの負の感情のほうが、考えを深められる感じがするなあ、と思ったところで、以前にも考えた痛覚は、体を守るためだと訊いたけれど、怒や哀の感情にも、意味があるのだろうか、と考えた一つの答え、鉱脈に、辿りついた気がした。

 

もしや、人に優しくできるような人間になるために必要な感情ではないだろうか。人と生きていく上で必要な行動を身につけるためにあるのではないか、と。こう書いていると、ピントがぼやけている気がする。怒と哀がない人の世界に住んだら、なんか、気持ち悪いと思うだろうなあ。

 

赤ちゃんにとって怒ったり、泣いたりする意味は?と考えると、快、不快を伝えるために、必要な感情。正の感情だけでは、腹が減ったとか、おむつを交換して欲しいとかが伝わらないから、結局、生きていけない。要は痛みと同様、生きていくために必要な感情。

 

では、大人になっても残っているのは、どうしてか?そんなことを考えていたら、頭がぼおっとして眠たくなってきたから、また今度、考えよう。